16. 逆縁教興

 先程から申して来ましたような、親鸞聖人の教学といいますか、仏教の真実を明らかにする思想の営みというものは、終始一貫弾圧のもとに醸成された事柄だというようなものの言い方は、何も私がはじめて言うことでもないんです。実は、ずっと、そのことが気にはかかっていたのですが、そのことを私自身の気持ちのなかで、もうひとつ明確にしきれなかったものですから、これまでお話を申すことができなかったのです。

 それは、昭和三十六年の七月十日という日付になっている曽我先生の講話であります。富山の月愛苑というところでなさった講話でありまして、「逆縁教興」という講題のもとでお話をなさったものです。

 今年は曽我先生の十七回忌に当りますから、その「逆縁教興」というお話は八十五、六歳の頃にお話になったことになります。その頃に、富山の月愛苑というところで、不特定な多くの方々を前にして、こういう題でお話をなさったのですが、そのお話の中でかなりはっきりと、弾圧という事柄について話しておられるのです。もちろん講話でありますので、言葉の前後ということがございますから、少々私なりに整理した形で申しますが、基本的には私は手を加えておらないつもりでおります。その話の中でこういうもののおっしゃり方をしておられるのです。

 本願のご文を見ると、一切衆生とか、あるいは十方衆生とかいうことがあります。それは自分の身近かな言葉で表すと、十方衆生というものは、つまり庶民ということでしょう。つまり、一般的な庶民。権力とか、社会上の地位とか、財産の力とか、あるいは精神力とか、そういうような力のないもの。長い間、少数の権力者というものから、虐げられておった。それに対して、仏教もまた、それと調子を合わせておるようなものでありまして、聖道門のおみのりというものは、世間の権力者と、結合して、そして庶民を奴隷のようにして、それを搾取して、いつまでも庶民が真剣に自分自身というもの、人生というものについて考える、そういう余地も何にも与えてやらんという、そのようなものが、『大無量寿経』の本願の上におおせられてありますところの十方衆生、十方一切の衆生、あるいは凡夫というようにおおせられるのである。

 もっとも仏教からいうならそういう人々の魂、精神、そういうものを養うように、そういう人々が本当の意味で、自覚するようにするものが、仏様の、大悲のご精神であるに違いない。それを仏法の名のもとに、世の中の政治家と結びついていく、こういうことが、いわゆる聖道門の仏教である。そういうカラクリの元に成り立っておるおしえというものは、正しい仏法であるというわけには、いかんわけでしょう。

 そういうことがあって、一般の庶民の願い、そういうものを双肩に荷ない、そしてまた、仏の本願というものを荷のうて、法然上人というお方が、日本の国に誕生して、そして選択本願念仏の浄土宗をお立てなされた。これが仏教の歴史においては、二千年の間なかったので、法然上人に至ってはじめて独立した。いわゆる花も実もあるところの浄土宗というものが、はじめて世の中に現れてきた。

 こういうような、言葉があるわけです。別に曽我先生がこういうことをおっしゃったからというて、ことさら、それを引き合いに出す必要もないんですが、こういうふうな表現で、本願が呼びかけている十方衆生を確かめ、その確かめにしたがって、そこから展開していって、その本願に立脚した、法然上人における浄土宗の独立ということのもっている意味というものを押さえられた。八十五、六歳、老齢と申していい年齢の先生が一般の人々の前で、はっきり、こういうことを口になさるということのもっている意味は何か。こういう表現をとられたからというて私はただ新しい表現だといっているわけでは決してありません。ただ曽我量深という先生が、異安心に問われたり、教団や大学から排除されたりいたしますけれども、少なくとも、曽我先生はいわゆる伝統の宗学の歴史の中で、事柄を確かめていこうとなさったということがありましょうし、そういう中からだんだんと、事柄をはっきりしていかれたということがあるわけでありましょう。

 私が今回お話をいたします最初に、弾圧という言葉一つを使うのに、あれだけ逡巡をしてしまう。しかし先生は、何の逡巡もなしに、本願文の中の十方衆生ということを確かめ、そして、その本願に立った浄土宗の独立ということの持っている意味を、「花も実もある浄土宗の独立」という言い方で明確にされる。そして、その浄土宗の独立までに、仏教は二千年の歳月を費やして来たのだ、という言い方をなさるわけです。こういうお言葉をお使いになる時、そこには先生の中に何が見えていたのか。

17. 言葉の再吟味

 いうならば、先生が時代の中でよく使われる言葉に迎合して、本願文をアレンジしたのか、それとも時代の中で使われている言葉そのものの生命を本願の言葉の中に逆に、押さえ込んでいく形で表現したのか。このあたりのところが、私にとっては、たまたまでありますけれども、月愛苑から出ている先生の講義の筆録を読みまして、非常な驚きをもって考えさせられたわけなのです。

 といいましても、曽我先生がこういうことを言われたといって驚いているわけではありません。こういう言葉になっても、基本が一寸一分も間違わないということと同時に、こういう言葉でキチッと表現することにおいて、本願という言葉になじみつづけてきた、私なら私という人間の中にあるあいまいさが、整理されていく、洗われていくという実感を持ったのです。洗われていって、お前が本願と言うている時は、具体的にはいったい何を言うてるのか、したがって、お前がうなずいているつもりで語っている十方衆生とは、いったい何なのか。凡夫というのはいったいどういう人間の状況なり、どういう人間を凡夫という言葉でお前は念頭に浮かべるのかと、厳しく問われたと実感したのです。そういう意味では、この曽我先生の「逆縁教興」というお話で、これほど明快な言葉をもって語ってくださったという事実そのものが、事を明瞭にしてくださったという以上に、私自身の中にある弱さというか、臆病さということを、厳しく指摘されたという実感を持ったわけです。そして、その弱さは今でも決して、断ち切られておらないということをずっと思い続けながら、今日でもいろんなことに関わっているのです。

 その弱さとは何かと言いますと、曽我先生がこういうように、ズバッと言い切って、しかも何かを主張したのでなく、ただ本願を了解し、その本願に立つ浄土宗という、一宗の独立の意味を明確にしたという、そのことの、過不足のない、事実の明晰性、そういうものが私の中に成り立っておるだろうかという問題であります。その辺がはっきりしていかないままでいろいろな表現をとりますと、新しい言葉を使えば使うほど、事柄の本質は本願から遠のいていって、やがて時代が変ってまいりますと、それはまた違う言葉によって、批判対象にされることになってしまう、ということになるのではないだろうかと思うのです。ところが、曽我先生のこうした言葉使いの中では、そういうふうな懸念は完全に払いさられている。例えば「権力」とか、「庶民」とか、「搾取」とかという言葉ですが、これは今日もよく使われる言葉であります。昭和三十六年頃と申しますと、そういう、言葉が非常によく使われていた時であります。そういう時に曽我先生が、本願、そして本願に立つ浄土宗の独立ということを、はっきりとそういう言葉で押さえ切って語っておられる。それでは、曽我先生がそれまで語ってきたことと、こういう、言葉をもって表現し直したことと、どっか違っているかというと違っていないわけです。違っていないどころか、言葉と言葉とがちゃんと感応道交しているわけです。そういうふうなことが、もしはっきりとしきれないとすると、浄土宗の独立ということの真意もわからなくなるんじゃないかということを逆に言い当てておられる。浄土宗の独立といっても結局は、いうているのは、浄土宗の「宗」は宗派という意味ではないんだといいながら、結局意識の底では、新しい宗派が一つできたということになっていくようなことになっていくのではないか、と厳しく指摘されるのだと思うのです。

 私は曽我先生がお書きになったものを時々、あらためて読み返しながら思うのですが、言葉に対して厳密です。それは、言葉を尊敬するというてもいい。先生のものの考え方の中にある言葉に対する感覚ということで言うならば、まさに「言霊(ことだま)」ですけれど、そういう、言葉は魂を持っている、その魂に対する尊敬を持っておられるということを感ずるのです。したがって、一つの言葉と一つの言葉とが、同じ意味だと言うた時に、ただ言葉をならべて、イコールで結ぶのでなくて、言葉と言葉が響きあっておる。響きあっておる時に言葉は生きておる。その言葉だけが人間を動かすんだ、というような、そんな、言葉に対する尊敬のようなものがある。私は曽我先生について言葉に対する尊敬ということを申しているのですが、そのことは、そのまま親鸞聖人の教学の営みの大事な要素だという気もしているわけです。

 話がとびとびになって申しわけありませんけれども、曽我先生のお言葉を通して思いますことは、本願と本願によって明らかになった浄土宗仏教、やがて親鸞が「大乗のなかの至極」と、こういうふうにうなずいた、その仏教を明らかにしていくということをなさった。それは、私がこんなことをあらためて自分の念頭におきながら、一度問題を問い直していきたいと、自分で思いかけた時のかなり強力な、一つの教示であったというふうに言い切っていいものを感じておるわけです。

18. 恵信尼公の書簡

 そういうことで私は、弾圧の中で終始一貫したという言い方をしましたけれども、具体的にやっぱりそうだといわざるをえないと思うのです。その具体的にそうだということを、私達に知らせてくれるものの一つは、親鸞聖人の奥様の恵信尼公の書簡だという気がするのです。恵信尼書簡というのは、いわゆる親鸞聖人がお亡くなりになった、翌年の弘長三年の二月二十日に、越後におられた恵信尼公が、京都の娘の覚信尼公に送ったものです。

 恵信尼公が、あなたのお父さんである親鸞という人、したがって自分の夫である親鸞という人、その人をどういうふうに確かめて、伝達するか、ということからその書簡は始まっているわけです。ですから、そういう意味では、私は恵信尼書簡、特に、弘長三年二月二十日という日付の付いております書簡の中に出てきます親鸞像は大切なことを教えていると思います。三国連太郎さんの『白い道』をご覧になって、おわかりでありましょうが、あの通りであるかどうかは抜きにいたしまして、越後から関東へ、そして関東でああいうふうな生活をなさったであろう親鸞聖人と、その妻である恵信尼は、その生活を共同して生きられたわけです。単に一般大衆と共に生きるというよりも、最底辺を生き続けながら、そこで仏法、法然上人の教えを明らかにうなずいていこうとしたのが親鸞聖人であり、その親鸞聖人と共に生きたのが恵信尼公である。いわば共同の生活があるわけです。三国さんはその辺りのところで、親鸞聖人と、親鸞聖人にある意味でついていけない恵信尼公とを描いてます。いくらついていっても、ついていって追いついたと思うと、その先を歩いている親驚聖人がいるという、一つの問題をあそこでは投げかけているように思います。追いかけても追いかけても、一つになれない距離を、むしろ恵信尼公自身が自分の中でうなずいて、そのうなずきの確かめを通して別れていくという形をとって表現をしているといっていいように思います。まあ、それはともかくとして、三国さんが、具体的に見ようとしたもの、それは何なのか。

 かつて、三国さんとご一緒してお話をした時に、三国さん自身がこんなふうに言うておられました。真宗のお寺さんなり、真宗の親鸞聖人の教えを勉強している人達は、どうして、関東で親鸞とその妻が具体的にどんな日暮しをしたのかということに思いを注ぐことがないんだろうか。そこに目を注がなくして、現生不退というような言葉を使っても、意味がないんじゃないかということを、三国さんが言われたことがあります。

 たしかに彼土不退といわれておったものを、現生不退と言ったところに親鸞聖人のすぐれた点があるというが、どういう現実を生きる人の中で、現生不退という言葉が、その人を現に具体的に救っていく言葉になったのか。誰でもこの世で不退の位につくんだという一般論なのか。それとも生きるか死ぬかのギリギリのところをやっと生きている人々のところで、キチッとその言葉が定着していくということになっていったのか。その辺りの押さえということがないまんま、彼土不退ではない現生不退だ、あるいは現当二益だと、いろんなことをいうけれども、そういうこと全体がやはり、親鸞聖人の教えというもの、親鸞聖人の思想というものを確かめていく、確かめ点が曖昧なのではないかという点を、指摘しておられました。

 三国さんは非常におとなしいものの言い方をなさる人ですから、私がいうような、キツイ言い方はされません。けれども、言おうとすることは、そのくらいの厳しさをもった、言葉でありました。その意味では、聞いている私の方からすると、告発を受けておるという感じで聞かざるを得ませんでした。

19. 夫・親鸞との別れ

 私は、そういうことをあらためて思い起こしますと、親鸞聖人の思想的営為というものが、弾圧のもとに終始したということを、あらためて実感させられることとして恵信尼書簡というものが、非常に身近に事柄を知らせてくれると思うのであります。

 昨年(こぞ)の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候いぬ。何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う。山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、云々 (聖典p616)

という言葉で始まる、あの文章です。私達は、なれておりますから、そう気にもならないのかも知れませんけども、じっくりと読んでみますと、手紙としては妙な文章ではないでしょうか。皆様方に妙なという印象を押しつけるのはよくないことかもしれませんが、八十二歳になった老婆である恵信尼公が、自分の夫と生き別れの状況で、しかも、かなり厳しい窮乏生活を越後で送っているところへ、京都で夫親鸞が亡くなったということを、娘さんの覚信尼から伝えてきた。その手紙を受け取って、そして、少なくとも受け取った日から申しますと、この返事を書くまでに一ヶ月近い間があるわけです。その間、恵信尼公は、何を考えておられたのかということを、やはりこの手紙を読む時考えさせられます。おそらくいろいろなことが胸中を去来したに違いないと思います。

 そんなことを想像するとき、あの『白い道』が、ある方向をもった確かめ事を私達に教え示してくれるような気がします。越後から関東へかけての生活を共にして、そして、やがていつの日にか、生き別れの状態になって生命終わるその時にも、死に水をとることのできないまんま永遠の別れをしなくてはならなかったのです。その夫の死を伝え聞いた妻が、それに対して何にも思わないということはないと思います。またある特定の立派なことだけが念頭に浮かぶということも、まず人間としてはないと思います。

 この手紙の最初に、「何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず」という一句がございます。この一句については、いろいろに解釈されております。たとえば真継伸彦さんなんかはかなりズバッと訳をつけておられたと思いました。「親鸞聖人の御往生については、今さらはじめていうまでもないことである」というような趣旨の解釈をつけておられました。そういう意味もないとは言い切れません。

 女性では円地文子さんが訳しております。ポイントをどこに置くかによって、こういう古い言葉というものは変ってくるものでして、「なかなか、はじめて申すにおよばず」というた時の感情を、やっぱり女性らしく、そこを押さえまして、「一言では言い尽せない」という表現に近い感覚で訳しておられました。

20. 往生の決定性

 最近では石田瑞麿先生が言葉に非常に忠実に訳を付けておられますけれど、女性が書いた手紙だから、女性が一番感覚的にわかるだろうという感じで、私は、「一言では中々申し尽せない」という感覚をこめて、往生の決定性というものを語るんだろうというふうに了解をしております。やはり、それにはいろいろな思いがあり、したがってそうした自分の思いの中に出てくる親鸞聖人の若い頃からの姿というものは、随分と具体的なものであったに違いないと思います。ところが、いろいろな姿が出てきたであろうにも関わらず、どうしてこの手紙の中心としては、三つのことしか示されなかったのかということを考えさせられるわけです。

 三つのことと申しますのは、法然上人のもとを訪ねるために、山を降りて六角堂に百日と日を切った参寵をして、九十五日目の暁に法然上人にお会いをし、その出遇いを具体的に確かめられた時の親鸞聖人の述懐、これが第一です。第二番目は、恵信尼公自身が、常陸の下妻、さかいの郷というところで、二体の仏様の姿を、夢の中で見たという出来事です。ご承知のように法然上人を大勢至菩薩として拝見し、夫、親鸞を救世観音菩薩として拝んだ。しかし法然上人については、夢がさめてから、夫の親鸞聖人に話はしたけれども、あなたを観音様のご化身のように見たということは、これはちょっとなかなか言いにくいことなんで、今まで言わないできたということを伝えていることであります。

 そうしてもう一つは、いわゆる「寛喜の内省」といわれることです。寛喜三年に親鸞聖人が風邪をひいて高い熱を出した、高い熱を出して節々が痛む様子を見て、恵信尼がさすろうとしても、それをさすらせなかった。体の側へ手をあててみると火のような熱さだった。ところが、それから、数日たったら、「ああ、そういうことだったんか」というふうに親鸞聖人が大きな声を出した。「何をおっしゃったんですか」とお尋ねをしたら、「実は、十七、八ヶ年前に、衆生利益のためと思って三部経を千部読誦しようと思ったことがあった。ところが、本願の名号の他には、何の不足にて、必ず経を読もうなどと思ったのかと反省して、三部経の読誦をやめた。それから十七、八年たっておるのに、その三部経の文字が一字残らず夢の中で目の前に出てくる。いったいなぜ出てくるのであろうと不審に思いつづけていて、ああそうかと気づいたことは、執心、自力の心の深さということであった」。それと気づいたら熱が下がってしまったということです。

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Last modified : 2014/10/30 22:12 by 第12組・澤田見