教行信証総説・第二講/廣瀬 杲

本願寺教団の萌芽

1. 講義の性格

 八月の二四日に、はじめてこの学習会におじゃまをしたのですが、あんまり器用でないということもあり、この学習会の形態がもう一つ私にのみこめないということもありまして、正直申しまして困惑をしておるようなことなんです。大阪教区の教学研修院という、そういう教団制度のなかの組織の行事としての研修会であり、しかも、皆さんはその第一期生ということで、何人かの人が選ばれておる。そういう皆さんと一緒に勉強していく学習会であるということと、同時にこの会は一般公開ということになっているわけですね。一般公開でありますから、当然どなたがおこしいただいても、結構であるわけなのです。

 しかもそこで、「教行信証総説」ということで、お話をするということになっている。もちろん基本的には、教学研修院という教団の制度的な学習会のメンバーということで、一緒に勉強しようという人達であろうとも、また一般のお仕事をもって生活をしておいでになる方々であろうとも、それが共同して勉強するということは何の不都合もないわけなのです。しかし、その辺が私の不器用さといいますか、何か二重になっているといった思いがしまして、私自身もう一つ、焦点がうまくあわないわけです。

 お話をする私自身としては、ある意味ではかなり突っこんだことといいますか、これまであんまり、そういうふうな視点からの発言がないというようなところまで突っこみたいという、そういう気持ちも一面にありますし、それがたとえ間違ったことでありましても、間違いは間違いとして、そこで正していただきながら、私自身が勉強していきたいという気持ちもあるわけなんです。そのようなことで、つめていくような話をいたしますと、私の性格からいいまして、これは結構窮屈な話になっていく可能性の方が強いわけです。そういうことで、実際、この焦点の定まらない状態が、いつになったらキチッとしてくるのか、そういうことが自分でも見当がつかないんです。

 だいたい不器用と言いましたが、以前にもこういうことを一度経験したことがあるんです。それは、ある教区の学習会での経験でありますが、その学習会は午前、午後に分かれておりまして、午前は僧分の人を対象にする学習会、午後は一般のご門徒を対象にする聞法会と、こういうふうに言われたんです。なんでもないことなのかもわかりません。それを気にする私の方が問題なのかもわかりませんが、私の意識の中では、僧分向けの話と、一般向けの話というのがあるのだろうかなということが、まず最初に念頭に出てきた疑問なんです。と同時に、そういうふうな発想で浄土真宗の教えを聞こうとするということはいったいどういうことか、どこかに問題はないだろうか、というようなことがやっぱり気になりまして、結局、その教区のお話は二回ぐらい行きましたかね、それでもう、やめてしまったのです。うまく分けてお話をするということが、とてもできないもんですから、私がわがままでやめたというよりも、かえってそのままで進めていくとご迷惑になるのではないかということを思いまして、他の先生に代わっていただいたという経験が一つありました。

 今回のこのお集まりは、主幹さんに聞きますと、何年という目どはつけとらんと言われます。そんなこというたって、第一期生という人達が二十何人おられるんですから、第二期という人が次に出てくるということが予測されているのでしょう。しかし、何年かかってもかまわんということに私がのっていけば、それは、むしろ、一般公開ということになっている、それをグランドにしてお話をしていくというのが、一番いいわけなんです。

 その辺のケジメを私がもう一つ付けきれないということと同時に、研修院の皆様方も、その辺をキチッと整理をしておいていただかんと、これからの話がやっかいになるんじゃないかなという気がしています。しかしまあ、こんなことを言いましても、結局は私の思っていることをお話をする以外方法はありませんし、それを聞いてくださるのは、研修院の皆さんでありましょうとも、一般からお集まりくださった方々でありましょうとも、お一人お一人でありますから、そのあたりのところは、お一人お一人に、どうお聞きくださるかは、おまかせして、私が思っておりますこと、特に、『顕浄土真実教行証文類』という書物に代表される親鸞聖人の教学の営みといいますか、そういうことのもっている基本性格というものを、どこまで確かめていけるかということを中心に据えながら、お話をしていくほかないと思っております。まあ、これだけ最初に申しておきませんと、自分の気持ちの整理がつかないものですから、言い訳けがましいようですが申したわけです。

2. 「弾圧」のひびき

 ところで、『教行信証』を学んでいく、あるいは『教行信証』だけでなくして、『教行信証』に代表されるといってもいい、親鸞聖人の教学の営みの性格というもの全体を押さえながら学んでいくということになると、一番重要な押さえ点というのは何だろうかということですが、私は、その点を先回は、「弾圧のもとに醸成された教学」であるという言葉使いで申しました。このことは、私にとりましては、正直に言いまして、はっきりそういう表現を口にして、事を押さえるということ、つまり、ある方向とある確かさとを実感しながら言い切っていくということは、決してそんなに以前からできたということではなかったことなのであります。正直に言うて、ここ数年そういうことへの着目ということができるようになったのであります。そして今では、まず基本的に弾圧下に醸成されていく教学であるという押さえ点というものは、動かしてはならないことでないかと、こんなふうに考えれるようになりました。ですから今回もその辺から、弾圧下に醸成された仏教の学び、というのはいったいどういう意味をもっているかということを一つ押さえていくことで、「顕浄土真実教行証」という課題を明確にした仏教の学問というものの成立根拠、成り立ちの根拠というものを見ていきたいと、こんなふうに思っているわけです。

 ただ、弾圧という言葉については、弾圧という言葉そのものが、ここにお集まりになっている皆様方お一人お一人、それぞれ、言葉の響きに対する感覚のようなものがあると思うのです。その言葉の響きについての感覚というか、気分というか、そういうものがあります。もちろん、親鸞聖人が九〇年歩まれて、その中で仏教をキチッと押さえていこうとする、そのこと全体が、歴史の上に具体化してくる事実、そういう事実として弾圧ということがあるということでもあります。けれども、そういうことであるに違いありませんけれども、私はもう一つ、その弾圧という事柄のもっている仏教を明らかにしていく時の、積極的性格というものを見ていきたいわけなのです。

 そういうふうに見ていこうとします時、ある意味で透明度が失われていくといいますか、邪魔になるのは、弾圧という言葉に関わっての、一人ひとりが持っている感覚的なもの、気分的なものです。それが先行しますと、どうしても先行した感覚で言葉を捉えてしまいます。確かめていこうとするにしたがって、親鸞聖人の教学、したがって『教行信証』に示されている事柄というものが、その個人個人の言葉の響きに対する感覚で受け止めていくということになってしまいまして、何か公明正大な事柄というものが、その辺で、どこか正当に伝達しなくなるのではないかということを、特に弾圧という言葉については感ずるわけです。

 それは、私自身が歩いてきた六〇年の歴史を振り返ってみましても、弾圧という言葉が、どんなふうに、その時代その時代の中で、独特の響きをもって、その時代その時代を生きる人々に、あるいは自分自身に伝わってきたかということを、私の個人史みたいなことで振り返ってみても、かなりいろんな感慨があるわけです。だから、弾圧という言葉を念頭に浮かべただけで、ある一つの人間の像がパッと出るくらい具体性をもっている部分もあります。そうでなくて、もっと違う形としては、そういう感覚から捉えるならば、弾圧とはいえないんじゃないか、というような、曖昧模糊とした形をとりながら、そういう厳しい現象として見える弾圧より、もっと本質的に厳しいという弾圧もありうるわけです。ですからそういう意味では、弾圧という言葉についての感覚的な響きを通して感じられる、その気分のようなものが問題になるわけです。

 これは、完全に捨て切るということはできないにいたしましても、こういうふうな確かめをしていこうとする時には、私自身は、自分の中に起こってくるいろんな弾圧という言葉の響きに関わって感じられる個人的な感覚、あるいは社会的な状況の中で受け止められてくるような感覚というものを、ある意味では拒否していかないと、話ができないのじゃないかという気がしているわけです。

 そういう意味では、聞いてくださる皆様方に、そのことを強要することはできませんけれども、でもやっぱり、ある意味で弾圧下に醸成された教学というような言い方を私がいたします時、あまり、その感覚的な事柄を先行させてお聞きとりいただくと、大事な問題が、どっかで曲がっていってしまうのじゃないかという気がしておりますので、もう一度その辺だけ、ちょっと整理をしておきます。

 整理をしておきまして、弾圧下に醸成された教学だということは、やっぱり決定的な親鸞教学の意味だというふうに見定めておきたいということをはっきり申しておきます。と同時に、その点についての着目が、今日までというても言いすぎでないと思いますが、決して十分になされたとはいえないんじゃないかという気がいたします。

 その辺を今日は少し具体的なことをもおり混ぜながら、こういう視点から、一度考えてみると、私が言おうとすることも、全く見当違いというわけにいかないんじゃないかというようなことを、探っていただければと思うのです。

3. 下山の歳

 親鸞聖人が比叡山を降りて、そして、法然上人の吉水の念仏門に帰していくという、あの出来事それ自体が、事実、非常に大きな意味をもつということについては、これまでもしばしば語られてきたことです。親鸞聖人自身は、自分の経験なさった出来事を、文章としてキチッと書くということを、御消息以外にはほとんどなさらなかったのですが、この「建仁辛の酉の暦」という、その時のことは、キチッと『教行信証』の上に明記しておられるわけです。あれほど明確に記述していることでありますから、それが親鸞聖人にとって、極めて重大な出来事だったに違いない、という程度の関心は、少なくともこれまでも、ずうっと持ち続けられてきた関心事であるに違いない。これは明らかだと思います。

 しかし、その重大性の意識、どういう意味で重大なのか、どういう質の重大さとして、それを押さえるのかということになると、案外、比叡山を降りて、そして、法然上人の浄土宗に帰したという出来事の重大性ということは、もうひとつはっきり性格を決定づけることができない状態で、ずっと長く、ある意味では今日まで、長く隔靴掻痒と言いますか、靴の上から足を掻くような感じで、その辺を了解していこうとしておったんじゃないかなと言う気がします。極端なことを言いますと、その辺を明瞭に了解せしめないようにしていくような、一つの真宗の学びの伝統的性格というようなものも、全くなかったとはいえないんじゃないかという気さえいたします。

 そういうところから考えて、逆なものの言い方をするのですけれども、例えば、著名な親鸞研究家、歴史研究家でありましても、二九歳の時に比叡山を降りたという下山の理由については、ほとんど的確に押さえきれないまんまきております。これは、どう考えたって不思議なことだといわざるを得ないと思うのです。

 今日は平均寿命が延びたといいますから、我われの命に対する感覚も随分違うと言うことがあるのかもしれませんが、少なくともあの鎌倉時代という動乱の時期にあって、人間が生きるということが決して容易であろうはずがありません。「人生五〇年」ということがありますが、これは、人間の命に対する常識的感情でしょう。だといたしますと比叡山という場所に身を置いて修行するということで、二九歳まで二〇年の歳月を費したという事実について何も考えないということができるでしょうか。二九歳の年になって、やっと山を降りてきたということ、これはどう考えたって、ただほっとくわけにいかない問題があることぐらいは、その後の親鸞聖人の生き方と、そして、その思想の営みの仕方から振り返れば、そこに、当然なにごとかが見えてるということが、健康な常識ではないかと私は思うのです。

 どうして山を降りたのかはわからんけれども、二〇年間、ぐずぐずしておった。ぐずぐずというわけじゃないでしょうけれども、とにかく、降りようか、降りまいかと、迷っておった。ところが、誰かに誘われて降りることになったという話なのか。それとも、やはり、二九歳まで降りられなかったのか。ともかく比叡山における親鸞聖人をどう見るのか、ということです。

 先程もちょっと申しましたが、人生五〇年という言い方が、少なくとも、人間の寿命の感覚ということとして今日でも生きているとするならば、その人生五〇年の内、三〇年というものを費やしてしまうわけですから、残りは二〇年です。

 思い出しますけれども、四〇歳でなくなられた清沢先生が、三〇いくつの時に、やっぱり、年老いたということを何回か手紙の中で言うておられます。すると、やっぱり普通、人間の感覚から言うならば、二九歳というのは、決して若いとはいえない、九〇歳まで生きた親鸞商人をまず念頭において二九歳を見ますから、青年親鸞と、こう言いますけれども、逆に一日一日生きていって九〇歳まで生きたという、その方向で勘定しますと、青年親鸞という言い方は、親鸞聖人の生きた当時の実際の感覚に即して言うならば、かなり問題があると思うのです。

 そういう意味では九〇歳まで生きた人にとって二九歳は若いという、この発想は我われの勝手な発想ですよ。普通九〇歳まで生きるということが、これは本当に稀有なことなんですから、稀有なことを、結果からおして、そして、青年親鸞という発想をするのは、私はこの辺にひとつあやまちをおかす、非常に素朴なもとがあるように思います。とすると、やはり、そこら辺でキッチリ見とどける方向を持たなければならないと思います。

4. 下山の意味

 もし九歳で出家なさったという言い伝えが正当であるといたしますと、九歳から二九歳までの二〇年間もの間、なぜ親鸞聖人は比叡山に身を置き続けたのか。そして、当然のことですが、比叡山で修行しておられる間にも、その比叡山を去っていかれた法然上人が、洛中にあって選択本願念仏の教えを広め、その教えのもとに男女老少に選びもなく、修行のできるできないも問題ではないというかたちで、多くの人々が集会していくという現実があったわけでしょう。そして、少なくとも、自分が今身を置いて学んでいる比叡山を捨てていったその法然上人のもとに、そういう一つの集いができている。それにもまして、自分が身を置いているその比叡山から、真摯な仏教修行者が法然上人のもとへ参じていくという現実がある。そういう中で二九歳まで、親鸞聖人だけ頑固に頑張っておったということになるのか。それとも、逆に二九歳までかかるような大きな問題を抱えながら、親鸞聖人は仏教を問うておったのか。比叡山二〇年というものを、そういう課題の時として、キチッと押さえきれるかどうか。この辺がひとつやっぱり問題になることだろうと思います。

 その辺のことを、時によりますと、愛欲の問題で、とうとう辛抱しきれなくなって、親鸞聖人は比叡山を降りたんだという考え方が、かなり一般的に了解しやすいこととして言われたりするようです。

 もちろん人間ですから愛欲の問題がないとは言いません。ないとは言いませんけれども、愛欲の問題で山を降りざるを得ないような人ならば、これは普通常識として考えて、二九歳まで頑張らないですよ。もしそうだといたしますならば、法然上人の浄土宗というのは、全部そういう意味で敗北者の集団だといわざるを得ません。仏道修行に対する敗北者の集団である。敗北者がたくさん集まったがために、数の論理で、自己正当性を主張したんだというふうに見る方が見やすいことになるのじゃないですか。

 ともかくも、そういうふうな個人が、どんなことで、どんなふうに悩んで山を降りたのかという発想で、親鸞聖人の下山ということを考えることは、第一義的なこととしてはできないというふうに、どうしても言い切らないといけないと、私は思います。生身の人間ですから、そういう個々人にとっての悩みはないなどといっているのではありません。しかし、第一義的なこととしては、親鸞聖人が愛欲というようなことを通しての、個人的な敗北感のようなものと一つになる事柄、それで比叡山を降りたというふうには、どうしても見ることはできないと思うのです。どうしてそんなことを言い切るのかというと、敗北感をもって山を降りて、その敗北の意識で法然上人に助けてもらったというのであるとするならば、その後九〇歳まで生ききって、亡くなるぎりぎりまで筆を執ったであろう、あの思想の営みというものの中に、そういうふうな発想基盤を見ることができるはずですが、そういう発想基盤を探すことの方が困難だからです。

 例えば、一番そういうふうに考えようとするのに都合がいい言葉ということでとり上げられるのが、例の、

 悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して (聖典p251)

という、あの「信巻」の悲歎の言葉ですけれども、あの一文もキッチリ読めば、そういうふうに了解することは不可能なはずであります。ただ前半の部分だけ読みますから、「悲しきかな、愚禿鸞」というて、その悲しみの内容は何かというと、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」おる悲しみだというふうに、もうそこで、独断的に決めてしまうわけです。ところが親鸞聖人にとっては、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑」するということがなぜ悲しみになるのかということの方が大きい問題なのでしょう。

 つまり、「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しま」ないという、そのことが問題なんです。それが悲しむべき内容なのであって、愛欲と名利に沈没し迷惑することが、ストレートに、直接的に悲しみであるわけでないのです。もし愛欲と名利ということに直接的に悲しむということであるならば、親鸞聖人が比叡山を降りた理由はなんにもなくなってしまいます。なぜかというたら、愛欲と名利というものを断ち切っていこうというのが聖道仏教です。そして、その聖道仏教の中で、愛欲断ちがたく、名利はらいがたいという悩みをもって悪戦苦闘していくところに難行といわれる意味があるわけです。だったら親鸞聖人は山を降りてからも、おんなじ意識でおったということにならざるを得ない。それではどうしたって筋が通らないのじゃないでしょうか。

 愛欲とか、名利とか、その他の諸々の人間関心が比叡山にいる間にも、親鸞聖人の中に起こってきて、それとの葛藤があったといたしましても、それは比叡山を降りる第一義的な意味ではないというふうに、私はどうしても考えざるを得ないのです。
 とすると、第一義的な意味は何かというと、一言で申しますと、はたして比叡山の法華一乗といわれる、少なくとも仏乗というふうに名告る、その大乗の至極を語る仏教は、人間にとって仏教として、いかなる働きをもつのかという問題だと思います。私はやはり、そこだけはキッチリと押さえておかなければいけないと思います。

5. 比叡山仏教の実態

 比叡山は親鸞聖人にとって何だったのか。確かに大乗仏教のメッカではありますけれど、メッカであるが故に、その大乗仏教は、いったい人間にとって、どのような働きをし、どのような具体的救済を表現していくのか、ということを問題にした時、事実は、その当時の都、動乱の中に多くの人々が呻吟している、その都人との関係を見ただけでも、大乗の至極を名告る比叡山の仏教というものが、現実的には、その塗炭の苦しみの中にいる人々にとって、救いどころではなくして、逆にその人々を苦しめている。世俗的にも、あるいは自然現象としても、諸々のかたちで苦しみを与え続けられているのに、もう一つ輪をかけるかたちで、仏教の名のもとに、宗教の名のもとに、苦しみをおおいかぶせていくというふうな状況を、親鸞聖人は見ないわけにいかなかったと思います。見ることを通して、なおかつ大乗の至極と誇らしげに語っている比叡山の仏教を、いったい何をもって大乗の至極というのかと、問わなくてはおれなかった。このことだけは、やはりキッチリ押さえておきませんと、『教行信証』、その他の親鸞聖人の教学全体がもっている基本的な地平というものを、読みとっていけないんではないかと思います。そのことがひとつでございます。

Pocket

Last modified : 2014/10/30 22:11 by 第12組・澤田見