6. 法然の念仏教団

 もうひとつ大事なことは、二九歳の時の法然上人とのお出遇いということであります。このお出遇いということが、弾圧されている仏教の現実状況のまっただ中へ、弾圧を承知で親鸞聖人は降りてこられたという事実です。親鸞聖人の二八歳の時、正治二年という年に念仏宗の停止という記事が出ておりますが、そういう記事が特記記事として出ているということは、その時にそういうことが、一回限り起こったという話ではなくて、そういう状況の中に、法然上人の念仏集団というものは、置かれ続けていたということでしょう。

 その弾圧されつづけている念仏集団へ親鸞聖人は入っていった。弾圧する側であった比叡山の仏教と訣別して、弾圧される側へ帰したわけです。だから親鸞聖人の下山の内容は現実的には、弾圧のまっただ中へ下山していったのであり、そして親鸞聖人は、その弾圧されるということの持っている意味を一生問い続けたんだと、こう言い切っていいと思うのです。

 そういう意味では、やはり、その辺でいろいろ考えていかなくてはいけない問題があると思います。たとえば、法然上人の『選択本願念仏集』という著作は、まさに浄土宗の独立宣言の書といってもいい本です。あの『選択本願念仏集』が、建久九年という年に書かれたということにしたがって考えますといたしますと、それは親鸞聖人二六歳の時です。その時に、『選択本願念仏集』を書くことそれ自体が、実は弾圧をさらに激しいものにしていくことを、法然上人自身が覚悟の上で書いているということです。とすると、『選択本願念仏集』の一番最後に書かれている、あの跋文のところの文章、

壁底に埋(うづ)みて窓前に遺すこと莫れ (聖教全書Ⅰp993)

という言葉も、単なる中国の故事にならって、そういうことをいうたんだというわけにはいかない。そこには、そう言わざるを得ない裏打ちがあるということを見ていかなくてはならないし、そういうことを見ていくことで、浄土宗の興行といわれることのもっている意味を押さえておかなくてはいけないだろうと思います。

 非常に断片的な話で恐縮ですが、そんなことから見ていくとしますと、例えば、『歎異抄』の跋文に、なぜあのような、本文と直接どう関わるのか、キチッとした定説を立てることのできない文章が位置づけられているのか。『歎異抄』の最初の書写本は蓮如上人の書写本ですが、その書写本に、ああいうふうな一文が位置づけられているということも、かなり大事な問題として見定めをしていく方向で、確かめをしなくてはいけないのではないだろうか。

 しかもあの跋文は、私もキチッと押さえきれませんけれども、ともかく文章が、はっきり浄土宗という言葉でなくて、「他力本願念仏宗を興行す」という言葉になっております。他力本願念仏宗というような言い方は、他に類例を見ることは非常に少ないですね。法然上人は浄土宗としか言いません。他力本願念仏宗とはいっていません。そうすると、浄土宗を他力本願念仏宗とうなずいた人がおったことは間違いないし、そして、うなずいた一人の人が勝手に言うたのではなくて、そういう言葉がああいう記録文章的なところに書かれて、それが一つの市民権をもつというような言葉として、浄土宗の性格内容を表現しておったということでしょう。

 ですから『歎異抄』の一番最後の文章の書き出しが、

後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す (聖典p641)

という書き方になっていることも、やはりかなり注目をしていかなければならない。そして、続いて、あの弾圧、死罪・流罪の記録がキチッと書かれて、そこから愚禿親鸞と名告ったということにまでずっと続いていくわけです。

 そうすると、あの文章は、事柄をキチッと整理しながら表現している積極的な発言を内容とした文章だと、こういうふうに読んでいく方が妥当だと思います。もちろんそれと本文とが、どう関係するかということになると、それはまたいろいろと考えていかねばならない問題がありましょう。

 同じことがやっぱり『教行信証』の一番最後の言葉、いわゆる、一般に後序といわれているところの言葉についてもいえるわけです。親鸞聖人が自分でお書きになったものの中で、何月何日というような、日時をキチッと記録して、現実に起こった出来事を内容とする文章を書くというのは、親鸞聖人の全著述の中であそこ以外にはないわけです。とすると、親鸞聖人は私的なことを語らなかった人だという感覚をもう一歩すすめて、その語らなかった親鸞聖人がなぜ『教行信証』の一番最後の文章には、それをもって一つのことを明瞭にすべく語ったのかということです。

 そのように見ると、語ったということの中に、単に事件を記録として書きとどめておくというような意図ではないということはわかると思います。事件を日記ふうにとどめておくというような意図であるならば、もっと他の書きものにもいくつか出てきていいはずです。それに類したものが、ましてや手紙なんかにはたくさん出てきたってかまわないと思うのです。しかし、出てこないのです。『教行信証』の本文の中にも、「我が元仁元年」という言葉が「化身土巻」にあるくらいで、それ以外そういうふうなことを我われに推測させる言葉というのはどこにもない。しかし『教行信証』の一番最後の文章はどうか。むしろ、推測をするに先だって、親鸞聖人自身が、何年何月何日にこういうことが起こり、こういうことがあったということを綴っている文章で、『顕浄土真実教行証文類』という、六巻からなる書物は終わっているわけです。そうすると、『教行信証』全体の終わりは、もっとも現実的、具体的な事象をもって、思想を完結させていくという形態をとっている。それが『教行信証』だといわざるを得ないと思います。

 私達が『教行信証』の後序に示されている「承元の法難」という言い方をしている、あのことだけが弾圧ということだというふうに、ついつい意識していきそうになりますが、むしろ、『教行信証』になぜあの「承元の法難」といわれる建永二年の弾圧を、ああいう形で書いたのかという、その思想性の方が、実は『教行信証』ならびに、『教行信証』のみではなく、親鸞聖人のすべての教学の営みを決定していく方向を我われに示しておってくれる。そういう意味では、『教行信証』の後序の文というのは、やはり、弾圧ということのもっている親鸞聖人の教学の確かめにおける意味、それを位置づけているというふうに私は言い切っていいと思っております。そんなことで、弾圧のもとに醸成された教学ということを私は言うのです。

7. 本願寺教団の萌芽

 もう少し話しておきたいことがあります。これは話しておきたいことなんですが、話した方がいいのか、話さん方がいいのか、迷うことなんです。こういうように迷うことをこれからしばしばお話しなくてはいけなくなりますので、お願いをしておきたいことは、私が申します事柄はかなり現実的にそれを引きつけてみますと、大変なことになりそうなことを申します。けれども、私は別に現実の、例えば教団とか組織とかということについて、何ごとかもの申そうというつもりはさらさらありません。ただ事柄として、こうではないかという筋道だけご一緒に確かめておきたいということなのです。ということですから、お話をするとき、ひょっとすると、かなりそのまま、ストレートに現実のところへ持ち込むと、教団解体という話になってきはしないかということにもなります。けれども、そんなことを意図して話しているのでもなければ、そんなことで皆様方と話し合おうとも思っておらないのです。ただ筋道としてこう見えませんか、ということを申し上げておくということなのです。

 まず、弾圧のもとに醸成されたということを押さえていくのに、違う側面といいますか、全く別な側面からそのことを押さえることができるという気がいたしますのは、まさに、本願寺教団という教団の成立ということに関わると思うのです。それは、いわゆる今日の教団というよりも、少なくとも、本願寺教団ということでは、今日の本願寺教団にまで連なってくる歴史の中で、このことを点検していくことになるのでしょうけど、その出発はやっぱり覚如上人だと言わざるを得ません。

 その時、私が非常に気になることがあります。覚如上人が、本願寺教団というものの筋道を初めて立てていこうとなさって努力をされた。その全体の中に、親鸞聖人の教学がもっている生命を、ある意味で、どうしてもスポイルしていかざるを得なかったという問題は、なかったか、あったか。これは決して、「だから教団は」というふうに、話をそっちへもっていかれると困るのです。ただなかったか、あったかということを確かめたいということです。

 そして、私は教団が成立していくということには、成立していかなくてはならないような、客観的な諸条件というものがあるということも、やっぱり認めていかなくてはいけないとも思います。だから教団が成り立ったということ、そのことについてとやかく言うのではありません。少なくとも、教団を成り立たしめていこうとする出発点において、非常に大きな問題を押さえきることができなかった。あるいは、逆な押さえ方をしてしまうということでしか、教団の成立ができなかったのではないだろうか、ということを思うのです。

8. 覚如と唯円

 それは、少し私には不慣れなことですけれども、覚如上人のそういうふうな歩みというものを大雑把に見ていきます。『歎異抄』の編者、河和田の唯円という人が上洛をして、覚如上人がお会いになったということが、『絵詞』の中に出てきます。覚如上人自身が河和田の唯円を非常にほめて話した内容が何かというと、善悪二業のことについて話したというんです。これも『歎異抄』を読みますと、よくわかります。

 『歎異抄』という書物について、倫理学専攻の友人が、倫理学の立場から『歎異抄』をとり上げて、大学の『学報』に論文を発表したことがあります。その論文の一つの主眼となっておりますのが、『歎異抄』の中に、善・悪という言葉がどのくらいあるかということを、ざあっと数えあげて、それはどういう意味をもつかということを倫理学の立場から確かめたのです。そういうふうに見ても見ていけるほど、善悪という言葉が非常に多いのが『歎異抄』の特徴です。

 そうすると、覚如上人と唯円大徳とが会うて話をした内容が、善悪二業のことについて話したということも、これはわからないことではない。むしろわかることです。とすると、その善悪二業のことについて話すことを通して、どういう結論が出てくることになったのかということも、ある程度推察ができるのです。それは、善悪二業と、念仏とがどういうふうな関係として認識されればいいのかという問題です。

 もっとはっきり申しますと、宗教と倫理を峻別できるか、それとも、倫理の延長上に宗教を位置づけるという発想で宗教を見ていくか、というような問題までふくんで論議がされたんだろうと思います。そして、覚如上人は唯円大徳を、本当にすぐれた学者だというて讃嘆しております。それが親鸞聖人が亡くなってから二七年後、覚如上人の歳で申しますと一八歳の時です。

 その唯円という人が『歎異抄』を書いたといわれておるんですが、もしそうだとすると、河和田の唯円という人はいつ亡くなったのかといいますと、ご承知のように、河和田の唯円というのは、報仏寺の開基とされております。報仏寺にご本尊がありまして、ご本尊の台座の裏に銘があった。その銘が読みとれることになって、その銘を通して見ますと、そこにはっきり、開基唯円の没年というのが、「承応元年八月八日」と、こういうふうになっています。ところが異説がありまして、承応二年二月八日だという説もあります。承応元年といいますと、唯円の六七歳の時だといいます。その翌年なら六八歳です。六七、八歳で亡くなった唯円と、数年前に一八歳の覚如上人とが会うて善悪二業のことについて、かなり突っ込んだ論議をしたということがある。

9. 歎異抄の歴史的意義

 私が、なぜ突然こんなことを言い出したかといいますと、『歎異抄』という書物を、私達は確かにすぐれた宗教書、したがって、仏教のみならず、宗教ということに関わるすべての人々にとって、公開された宗教書であるという視点で『歎異抄』を拝読します。多くの人も『歎異抄』を通して親鸞聖人にふれていきます。そのことはそのこととして、大きな意味をもちますし、そうなるべくしてなっているということもわかるのです。

 けれども、今、こういうふうな確かめをしていこうといたします時には、やはり一つ問題となりますのは、親鸞聖人の教えの伝統を正統に受け伝えていこうとする時、なぜ親鸞聖人の直門では、ただ一人文章を書いて残していった河和田の唯円が『歎異抄』という文章を書かなくてはならなかったのかということです。この問題は、単に信仰一般論ということでは、ちょっと解決できないのじゃないでしょうか。ご承知のように親鸞聖人の直門のご門弟の中で、『歎異抄』に類した文章を書かれた人は唯円以外には一人もないわけです。

 かつて、私が初めて大谷大学で授業をやることになりました頃、曽我先生に教えられたことが今でもずっと念頭にあるんです。たまたま学校の約束事として、『選択集』の講義をしなくてはならないということと、もう一つを自由に選んでいいということがありました。その『選択集』は決められたことですから、やらなくてはならない、もう一つ自由に選ぶ方は、私は『歎異抄』を選んだのです。初めてですから、どういうふうにして授業したらいいのかということを、曽我量深先生のお宅にお尋ねにあがった時に、曽我量深先生の方から、スパッと言われたことが、今でも私の念頭を離れないんです。

 「廣瀬さん、あんたは今年から、親鸞聖人のお師匠さまのお書きになったお聖教と、親鸞聖人のお弟子の書かれたお聖教と、両方勉強するんですね、結構ですね」と言われました。こういう発想というのは、私達普通もちますかね。真宗学、親鸞、すぐスパッといっちゃうんじゃないですか。私はその問題を今でもずうっと持ち続けております。

 仏教が生きとるか、死んどるか。どこで決めるかというたら、どっから生まれて、何を生むかということでしょう。まさに、生産道ということでなければ、仏教というものはやっぱり一片の思想であるか、あるいは、人間の現実の中で生きるということのないということになっていくんじゃないんですか。何から生まれたか、そして生まれたという証を、どのように生むということで明瞭にするか。まさに、そういう歴史の出来事として具体的な生産の道、人間を生み出していく道を表現していくということが、浄土真宗という言葉で呼ばれる仏教の確かめごとであるわけです。

 親鸞聖人をあんまり讃えておりますと、ひいきの引き倒しになりまして、何でもかんでも親鸞聖人、親鸞聖人でことが終わっていってしまう。ところが問題は、親鸞聖人はどっから生まれてきたのか、親鸞聖人の故郷はどこなのか、親鸞聖人は何を生んだのか、現実の人間の中にどういうことを生産したのかと、その生産された結果は、人間にとって無意味なことであるのか、ある特定な人間にとってしか働かないことなのか、それとも、時代と社会との選びをこえて、人間が人間として生き続ける限り、その言葉が生き続けるというようなことなのか、どうなのか。

 こうなりますと、これはもう理屈抜きにして、『歎異抄』が今日、親鸞聖人の言葉の聞き書きであることくらいはみんな承知です。けれども、聞き書きであることすら忘れて、『歎異抄』の言葉をもって親鸞聖人の言葉と決めております。決めて問違いがないという、誰もその保証をしないにも拘わらず、自分で聞いた人間が保証しておるわけでしょう。その保証が公な意味を持っているわけです。だから、『教行信証』の中の言葉より『歎異抄』の言葉の方が、親鸞聖人の言葉として一般には知られているわけです。

 「それは間違いだ、テープレコーダーでとったわけじゃない、だからそのように言うたかどうかはわからん」と、こういう発言は、そこでは入り込む余地をもたんわけです。ということは、それほど生きた言葉が、生きた人間を生み出して、生まれた人間が、生きた言葉で語ったということのもっている決定的な力と、決定的な仏道の働き、そういうものを、そんなところに我われは読みとっていくことができるからなんです。その面は大事な面ですけど、そういうことをも含めて、なぜそのような書物が『歎異抄』という題でなくてはいけないのかというふうに、ちょっと頑固なぐらい『歎異抄』の作者唯円は言い切っていくわけです。「なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず」というんですから、この本は『歎異抄』という名前以外につけてはいけませんというわけです。

 普通はちょっと遠慮するでしょう。『歎異抄』と呼ぶのがいいでしょう、ぐらいにいうのでしょうが、「なづけて『歎異抄』というべし。外見あるべからず」と、こう言い切っていく。あれは命令口調ですよ。それで、『歎異抄』というのはどういう書物なのか、なぜ「歎異」というのか、ということについては、一番最初にも書かれますし、そして、後の文章にも書かれてくるわけです。しかし題名は『歎異抄』という題名以外に、この書物は題をつけてはならないのだという決定をしていく。ということは、やっぱりそういう決定を要請することというのが、かなり近い状況の中であるということを、我われが考えてもそれほど無理ではないと思うのです。

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Last modified : 2014/10/30 22:11 by 第12組・澤田見