10. 『御伝鈔』製作の意味

 そういたしますと、私にはどうしても気になるのは、『歎異抄』の編者である唯円と会って、善悪二業のことについて、かなり話し込んだ覚如上人が、二〇歳の時、お父様の覚恵さまと一緒に関東へ、親鸞聖人の旧跡を求めて訪ねていきます。それが承応三年という年ですから、唯円の亡くなったのを承応元年とするならば二年後、承応二年とするならば一年後、関東へ訪ねていくわけです。訪ねていった結果、その四年後に、いわゆる『報恩講私記』というのを、覚如上人が二五歳の時に書かれているわけです。

 そのあたりに、私は、関東の同朋の人々の間を回って歩くなかで、何を覚如上人は感じとってきたのかということがかなり気になるんです。気になると同時に、その翌年の永仁三年という年に、例の、今日の『本願寺聖人親鸞伝絵』の一番最初のものが書かれているわけです。その時には、それは、『善信聖人絵』というふうに表題が付けられております。それが永仁三年の一〇月の一二日という、二六歳の時です。今日、西本願寺に所蔵されております。その親鸞伝絵、『御伝鈔』は、覚如上人の一生の中で五回書かれるわけです。繰り返し、繰り返し書かれていくわけです。しかも、その五回も書かれていく書き方が、題だけを見ていきましても、第一が『善信聖人絵』、その次が『善信聖人親鸞伝絵』です。これも高田の専修寺にあります。これも二六歳の時です。ずっと年代は隔たりますが、康永二年という年、覚如上人の七四歳の時ですけれども、そこには『本願寺聖人伝絵』となっています。

 その翌年の康永三年には『本願寺親鸞聖人伝絵』となり、そのことは、七七歳の時、貞和二年という年に書かれた弘願本と呼ばれている『本願寺聖人親鸞伝絵』という形態をとることになっていくわけです。

 どうして、親鸞聖人の絵伝に覚如上人が執着というていいほど力を入れて、自分の一生をかけて、そのことをやらなくてはならなかったのか。きわめて私は不得手ですから、歴史学的に、あるいは書誌学的にその辺を確かめることはできませんけれども、やっぱり弾圧下に醸成されていく教学、それが親鸞聖人の教学だというならば、それと呼応して、あるいは対応して、覚如上人の一つの教団形成のために必要とする要素というものは、いったい親鸞聖人の弾圧下に醸成された思想であったのか。それとも、それをどっかで色がえしなくてはいけない何事かがあったのか。それがやっぱりキチッと見定められなくてはいけないのではないだろうか。その面から逆に、弾圧下に醸成された教学だということをキチッと押さえていく必要があるんじゃないだろうか、こんなことをひとつ思っているわけです。

 私達は、教団に身を置いて、教団に生きている人間でありますから、その身を置いて生きているということに、どうしても胡座をかかせないといいますか、教団という問題を場所にして私が生きているんだ、というふうな認識をもたないと、どうしても私達のこういう学習会というものも、例えば、ストレートに教団のあり方を批判するような学習会でありましても、それ全体がどっかに、もっと根っ子のところでは、教団の護持存続を求めるというような意識が作動します。あるいは違う形で教団の正当性というものを主張していく論法で話をしていくといたしましても、それは当然教団の護持存続ということを、主張していこうということになっていきます。

 しかし問題は、なぜ教団を護持存続しなくてはならないのか、それが親鸞聖人を宗祖と仰ぎうる教団として、どういう意味をもつのかということを、キチッとどこかで確かめられうる限り確かめておかないと、結局は教団エゴイズムということにならざるをえないわけです。現実にどういう形態をとるかという問題ではなくて、確認事項ということで、それだけははっきりさせておかなくてはいけないという気がするのです。ですから覚如上人の二十歳前後から、お亡くなりになるに近づく年頃までの中で、一つの中心的な役割をはたすことになっていく、親鸞聖人の伝記、伝絵の製作ということのもっている意味を、もう一度たずねてみたいということがあって、お話をしているわけです。

11. 変遷する題名

 覚如上人は、『善信聖人絵』から始まって、『本願寺聖人親鸞伝絵』に至るまで五回にわたって書いていくわけですが、その時に一番顕著なのは何かというたら、内容よりも題名が変っていくということです。

 最初は「善信聖人」です。善信という名は、『歎異抄』の中にも、すでに法然上人から呼びかけられる呼び方として、「善信房」というふうに呼ばれております。そして、善信という言葉は、親鸞聖人自身が、やっぱりご和讃の製作の時にも「善信作」というふうにお書きになることがあります。「善信」という言葉は、親鸞聖人の生きておいでになる頃にも、親鸞聖人が自分を名ざしていう時に使われた言葉でもあったわけです。ある意味では「親鸞」という言葉以上に、生活化された言葉であったのかもわからないという気がします。

 そうすると、その名前に、「聖人」がついて『善信聖人絵』ということになっても、内容との関係を抜きにしていいますと、まず最初そうなるのは当然でしょう。それがなぜ『本願寺聖人親鸞伝絵』になっていかざるをえなかったのか。題がどうして変っていかなくてはならなかったのか。これがやっぱりひとつ大きい問題として、私は見ておいていいことだと思うのです。

 そうして、その本願寺という寺号が、覚如上人の五一歳の時、親鸞聖人没後六〇年という時、元享元年という年に、本願寺という寺号が名告られていくわけです。そして、いわゆる大谷本廟、つまり祖廟の留守職ということをめぐって、留守職ということを安堵する、いわゆる認めるということで、天台宗の青蓮院門跡の名のもとに認可状が出ています。また覚如上人と、お子様の存覚上人との、いろんなトラブルがあります。その中で、覚如上人を留守職とするのが正当だということについて、やはり、延暦寺の妙香院というところから、そういうことを決めてくる書状が出てきます。

 ということは、少なくとも、そのことだけを一つピックアップしますと、親鸞聖人は比叡山を降りた人です。はっきり言えば比叡山と訣別をした人です。そして、比叡山の仏教というもののもっている本質に対して、キチッとものを言い続けていった。それが弾圧下にあるということのもっている基本性格であります。ところが、それが、覚如上人の本願寺という形態と、『本願寺聖人伝絵』というものを書く状況の中では、むしろ、天台宗によって認可されるような関係を保つ寺院になっていくということです。これはそうならざるをえない歴史事情だといえばそれまでです。けれども、それだけでことは終わらないと思います。やっぱり、そういうことによって、親鸞聖人が訣別したという意味は、もうすでにして、かなり希薄にならざるをえないということがでてきます。なぜ訣別したのか、なぜ二十九歳で山を降りたのか、そして、

竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり(聖典p398)

というた、その浄土の真宗が、どうしても聖道の諸教との関係を再度結ばなくてはならなくなるのか、これは、世間の事情だといわれれば、事情だということはわかっています。だけれども、そういうことの中に我われが見落してならないのは、それが親鸞聖人の、あの聖道の仏教との訣別の意味をどれほど明確にする要素をもっているといえるのか。まず、言えるという方がかなり困難じゃないかという気がします。そのことを、覚如上人という方はご存知だったんじゃないかという気がするのです。

12. 教行信証の三序

 親鸞伝絵の中に、いわゆる『教行信証』の中からの引用が二度出てまいります。それは全部、今日私たちが「後序」と呼んでいる、あの文章を引いていくという形をとります。

 「後序」といいますが、あれをなんで後序というのですかね。疑う余地もなく、「後序」と我あれはいうていますが、そう簡単にあれを後序というていいんでしょうか。親鸞聖人がいわれたのなら、それはもう文句のつけようがありません。また親鸞聖人が、「序」という言葉を一度も使っておらんのなら、話は別です。しかし、親鸞聖人は『教行信証』六巻の中で、「序」という言葉を二度使っているのです。 まず最初に「顕浄土真実教行証文類序」、もう一つは、「顕浄土真実信文類序」です。これは、はっきり「序」という言葉が付けてある。その「序」はどういう意味なのかということは、親鸞聖人自身が確認しているわけです。ところが、いくら一番最初の「総序」と呼んでおる、あの序と同じ書き出しで書かれているからといって、一番最後の文章を同じように「序」と呼ぶには問題があります。

 親鸞聖人の書物ですから、親鸞聖人の書物の中に二度出てくる「序」という言葉の使い方と、かなりきびしくつき合わせをして、これは「序」と呼んでいいのだという確認ができない限り、勝手に付けてはいかんというのが普通じゃありませんか。ところが、いつのころからか、あれが「後序」だということになりまして、そして、それが今日では、もう定説になって、疑う余地もなく、「後序」だとしております。へたをいたしますと、親鸞聖人が「後序」というたんだ、というような感覚さえもつということになってしまいます。しかし私は、あれは「後序」というふうに呼ぶのは、かなり問題があるという気が最近してます。

 例えば、一番最初に『教行信証』全文を最初から最後まで解釈をなさった存覚上人の『六要鈔』は、あの文章を「流通分」と呼んでいます。いわゆる『教行信証』全体を序分、正宗分、流通分という、三分という、いわゆる仏典についての了解を述べる時の方法をもって『教行信証』を読んでおります。したがって、そういう意味では、存覚上人の時には、序分、正宗分、流通分であって、あれはやっぱり「流通分」なんです。

 もっとさかのぼりますと、今の『御伝鈔』の中に『教行信証』の文が二度出てまいります。その二度出てくる文章が、今、一般に「後序」というているところから出てくるのです。その二度出てくる、その言葉について覚如上人自身は、はじめの方では、

『顕浄土方便化身土文類』の六に云(のたま)わく(聖典p727)

と、こういうふうにいうています。いわゆる『教行信証』の六巻目の「顕浄土方便化身土文類」の文章だというていますから、「後序」だというふうには、全然意識の中にもなかったということです。

 そうして、『御伝鈔』下巻の方に、やはり同じ後序の文章が出てきます。その下巻の方の後序の文章の場合も、やはりこれも、言葉といたしましては、「『顕化身土文類』の六に云わく」と、こういいますから、やはり、「方便化身土文類」の中の言葉というふうに読んでいくわけです。

 そうすると、覚如上人は、あの文章は「顕浄土方便化身土文類」の一番おしまいの言葉だと、こういうふうに見ています。また存覚上人が解釈なさる時にも、解釈をしていくわけですから、それはやっぱり位置づけていかなくてはなりません。その位置づけていく時には流通分として位置づけていくわけです。そうすると、そこには流通分というふうに位置づけたことの意味を、やはり点検をしていくことの方が、後序というふうに見ていくよりも、積極性をもっていることは十分いえると思います。

 例えば、「後序」という時の序は、総序、別序とは違います。書かれている内容が、何年何月何日にこういうことが起こったという、出来事が主流になって書かれております。ですから、『教行信証』を起筆する事情としての意味といいますか、事由を示しているんだというような言い方をします。事実としての理由です。だからこういう事件があり、こういう出来事があった。あったからして、それに対して、こういうふうにことをキチッと整備をして、文章を書いていくんだというような位置に後序という文章を位置づけようとしていきます。

 一見これは、「そうかいな」という感じがします。弾圧の記録があって、法然上人との出遇いの記録があって、そして、それに伴なっていろんな出来事が記されているわけですから、そういう事情を背景として、『教行信証』が書かれたと、こう考えるのは、一見考えても無理ではないという気がしますが、退一歩しますと、そういう発想で『教行信証』の成立ということの根本的意味を見ていくということになると、これは、『教行信証』それ自体が誤たれるということになりはせんかと思うのです。こういう事情があったから、これを書いたというのならば、『教行信証』という書物は、本当の意味で、『顕浄土真実教行証文類』という課題を明確に打ち出していく書物としての性格を、どっかで希薄化させていかざるをえなくなると思います。そんなことを思っているのですけれども、このことについては、「教行信証総説」ですから、またいつか気が向いた時に話すことにします。

 今日は、特に問題を覚如上人の『御伝鈔』へ絞っていきます。

13. 『御伝鈔』所引の後序

 後序の文章を『御伝鈔』の中では、上巻の方に、

然愚禿釈鸞(しかるにぐとくしゃくのらん)、建仁辛酉歴(けんにんかのとのとりのれき)、棄雑行兮帰本願(ぞうぎょうをすててほんがんにきし)(聖典p727)

から始まって、そして、『選択集』付属、真影の図画というようなことが記されてきて、そうして、

仍抑悲喜之涙(よってひきのなみだをおさえて)、註由来之縁(ゆらいのえんをしるすと)云々(聖典p727)

という言葉まで引いています。その引き方は、なぜそういうところの文章を引くのかという、先の言葉が置れているわけです。

黒谷の先徳(せんどく) 源空 在世のむかし、矜哀(こうあい)の余り、ある時は恩許を蒙りて製作を見写し、或時は真筆を降して名字を書賜わす、すなわち『顕浄土方便化身土文類』の六に云わく 親鸞聖人選述「然愚禿釈鸞、建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願 (聖典p727)

と、このように選択付属、真筆をもって「南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本」という内題の文字と、「選択本願念仏集」という題と、その題下の十七字と、そして、釈の綽空という、その名前とを書いてもらったというようなことが、書きつらねられています。さらに、真影の図画をお願いして、これを許可していただいて、それに讃の言葉を書いていただいたというようなことが、ずうっと書かれています。そして、それがどこで終わってるかというたら、一番おしまいまでは書かれてはいないのであって、

是専念正業董之徳也(これせんねんしょうごうのとくなり)、是決定往生之徴也(これけつじょうおうじょうのしるしなり)、仍抑悲喜之涙(よってひきのなみだをおさえて)、註由来之縁(ゆらいのえんをしるすと)云々 (聖典p727)

とこういうふうに止めてあります。『教行信証』の、いわゆる後序の文章は、この後に大事な文章がずうっと続いているわけです。これから後に積極的に『教行信証』を位置づけていく言葉があるわけです。例えば『安楽集』の文、

前(さき)に生まれん者(ひと)は後を導き、後に生まれん者は前を訪(とぶら)え (聖典p401)

と呼びかけて

連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と (聖典p401)

というような言葉も、この後に出てくるわけです。

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Last modified : 2014/10/30 22:11 by 第12組・澤田見