14. 後序引用の意図

 ところが、そういう『教行信証』全体の中で非常に重要な意味をもっている言葉が、全部はぶかれておりまして、結局ここに引かれているのは、まさに出来事が引かれているのです。しかも、その出来事はどういう意図で引かれているかというと、黒谷の先徳源空上人と親鸞聖人との人間的な関係の深さということを表現すべく、『選択集』の付属でありますとか、真影の図画でありますとか、真筆をもって書いてくださったとかというようなことが位置づけられておるわけです。ですから、

矜哀(こうあい)の余り、ある時は恩許を蒙(かぶ)りて製作を見写し、或時は真筆を降して名字を書賜わす (聖典p727)

というんです。これだけの理由でここの文章は引かれているわけです。しかも、

『顕浄土方便化身土文類』の六に云わく親鸞聖人選述 (聖典p727)

と、わざわざ選述者の名前を記録しています。そうすると、先の方では、「黒谷の先徳源空」と、このように源空の名前が出て、そして、親鸞聖人選述と書かれています。そして、その書かれている内容というのは、源空上人と、弟子の親鸞聖人との人間的な関係の深みというものが書かれてきて、そこに相承ということの意味を位置づけていくわけです。伝統相承ということの意味を、非常に権威をもったこととして位置づけていくという形でこの文章は書かれております。

 ところが、親鸞聖人の『教行信証』の後序の文章のあの部分は、そういう意味は全く読みとれないのが本来でしょう。本来そういう意味は読みとれなくて、

建仁辛(けんにんかのと)の酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す (聖典p399)

という言い方をして、まさに、法然上人に帰すという言葉さえないわけです。

 そうすると、事柄は雑行を棄てて本願に帰すということの証ごととして、こういう出来事があったということを記録しているわけです。したがって、雑行を棄てて本願に帰すことのできるようになった親鸞聖人自身の深い感動、生命の中でうなずいた感動というものを、「悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す」という言葉で位置つけているわけです。

 ところが、はじめの文章を覚如上人が置くことによって、親鸞聖人がもっとも大事にした、その意味をはずしてしまいまして、そして、黒谷の聖人源空と、親鸞聖人との師資相承の決定性というものを表現する文章として、こういう証拠があるというかたちでここへ位置づけるということをしたわけです。この時すでに、親鸞聖人の『教行信証』の一番最後の文章とは同じ文章ですけれども、きわめて積極的な意志をもってしたというてもいいほど、意図的に位置づけを変えております。

15. 事実と叙述

 しかも、『教行信証』の書き方で申しますと、この文章が先にはなくて、いわゆる、

竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり (聖典p398)

という言葉で始まって、「しかるに諸寺の釈門、教に昏くして」という弾圧の事実が記載さねて、その弾圧について記録をして、その後に、

しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す(聖典p399)

とこう書かれているわけです。

 ところが、事実、事件ということになれば、これは親鸞聖人の書き方の方が逆です。弾圧を受けて法然上人に遇うたのではない。法然上人に遇うたから弾圧を受けたんですから、事件ということになれば逆です。とすると、事件としてまず見ようとするならば、この覚如上人の書き方の方が正しいといわなくてはなりません。

 まず法然上人に遇うたということがある。だから弾圧を受けたということがあった。だから、先に法然に遇うたことを書いて、次に弾圧を受けたことを書いてくる。事件という視点でこの後序の文の全体を見ていくとすると、親鸞聖人の書き方は逆であります。正しく事件記録というかたちに置きかえていくとすると、やっぱり逆にしなくてはならなくなる。だから、師法然上人との出遇いの方が『御伝鈔』の上巻に位置づけられて、そして弾圧の方が下巻に位置づけられるということになるわけです。それをこの時、親鸞聖人が、当然一番自分の体が知っている出来事を、なぜひっくりかえして書いたかということは、もはや不問にふせられてしまったわけです。問われないことになってしまったわけです。たんに一つの出来事になってしまったわけです。ここにひとつ大きな問題があるのでしょう。

 このような出来事にいたしました時、その出来事の意味を述べるのは、最初に起こった出来事について記録する時に、それは法然・親鸞の伝統の正当化ということを、これだけの出来事が証拠としてある、というかたちで示すということで位置づけた。この法然・親鸞の伝統というのは、やがて三代伝持ということをもって、本願寺教団の正当性を主張していこうとする覚如上人にとりましては非常に大事なことなのです。

 法然上人、そして親鸞聖人、如信上人と伝統されて、そしてその伝統を受けついだのが覚如上人であるという、位置づけをしていきますから、この伝統をキチッと位置づけていくわけです。まさに、師資相承ということを位置づけていくということは、これは決定的に本願寺教団の成立の根本的な確認点というものを明確にしていくということになります。それがこの最初の文章です。

 ところが、その後の後序の文章を引いてくるところですが、これも非常に問題の多い書き方をしていると言わざるをえません。

浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。是空師の所為なりとて、忽(たちまち)に、罪科せらるべきよし、南北の碩才憤り申しけり。『顕化身土文類』の六に云わく、竊以、聖道諸教、行証久廃云々 (聖典p732)

という言葉で始まりまして、後序の文から引かれているのは、

空師并(ならびに)弟子等(でしら)坐諸方辺州(しょほうのへんしゅうにつみして)、経五年之居緒(ごねんのきょしょをへたり)(聖典p732)

と、ここまでなんです。ところが問題は、ここまでで終わって、その後に実は、

空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 幡多、鸞聖人罪名藤井善信、配所越後国 国府、此外の門徒、死罪流罪みな略之 (聖典p732)

とこういうふうにいうています。ところが、「略す」ということになりますと、何んのためにこの文章を書いたのかわからなくなるのです。

16. 弾圧の原動力

 そして、この文章でわからなくなるもう一つの問題があります。それは、親鸞聖人が『教行信証』のいわゆる後序の文章で、弾圧ということのもっている意味は、キチッと押さえようとするために、興福寺の奏上文のみを位置づけております。興福寺の学徒の奏上ということをもって、聖道の仏教が弾圧を促進していく原動力になっているということを、キチッと位置づけております。

 しかし、事実ということになれば、南都興福寺の弾圧行為が激しかったのか、それとも北嶺延暦寺、あるいは三井寺等々の弾圧行為の方が激しかったのか、ということになれば、これは当然のことながら、北嶺延暦寺.三井寺の弾圧の方が盛んであったことは明らかであります。そのために、法然上人は何回か延暦寺に対して起請文を書いて送っております。その中で「七ヶ条の起請文」というのが、親鸞聖人も「僧綽空」と名を書いて誓約をしています。ああいうことは一度だけではありません。

 とすると、当然事柄としては、この覚如上人がお書きになったように、「南北の碩才憤り申しけり」の方が正しいんですよ。正しいというのは、北嶺の方が激しかったので、北嶺の天台宗延暦寺の座主のところへお詑状、あるいは起請文を送ったということがあったといたしましても、南都もやっぱり「興福寺奏上」というものを出すわけですから、それを公平に見て、事実として押さえるならば、「南北の碩才憤り申しけり」というのが一番正確なんです。当然正確なんです。

 しかし、なぜ親鸞は、南北の碩才の問題として、あの弾圧の事実を表現しなかったのか。どうして、南都興福寺の奏上文のみをもって、弾圧の意味を明確にしようとなさったのか。そこには決定的に重要な意味があるわけです。ところがその意味は、覚如上人の『御伝鈔』では、「南北の碩才憤り申しけり」で消えてしまったわけです。

 その点になりますと、ご承知のように『歎異抄』の一番最後に、

後鳥羽院御宇《ごとばいんぎょう》、法然聖人他カ本願念仏宗を興行す

この文章も、やっぱり正確に後序の文によっております。だから、南北とはいいません。

干時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事。
一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四入死罪におこなわるるなり (聖典p641)

とキチッと書いてあります。ここではやっぱり南北ではありません。興福寺の僧侶が敵奏した、それによってこういうような流罪死罪が行われたということで、キチッとそれを書いています。

 ところがそれと非常に近似的に位置づけられていいはずの覚如上人の『御伝鈔』では、そのところが、興福寺の敵奏ではなくて、「南北の碩才の憤り」ということになっております。そして、『歎異抄』あるいは『血脈文集』等に出てくる記録に較べますと、何入が流罪にあい、何人が死罪にあったということが書かれていいはずのところを、法然上人と親鸞聖人だけを書いて、後は「みなこれを略す」と、省略法で消してしまったわけです。

17. 曲解された禿の名告り

 そうすると、そこで弾圧の性格と、弾圧の内容というものが、非常に見えにくくなったわけです。見えにくくなったところへもってきて、その後に、

皇帝 諱守成号佐渡院 聖代建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免、此時聖人右のごとく、禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり (聖典p732)

という文章で、この「方便化身土文類」から引かれた文章というものを位置づけております。これはやっぱり、またひとつ大きな問題をもつと思います。なぜかといいますと、確かに岡崎中納言範光という人が、罪を許すという使者として、そういうことを伝達したということは、他の記録にもあるわけですから間違いのないことなんです。間違いのないことですが、そのことに対して親鸞は、禿の字をもって奏聞をしたということが出てきます。

 その禿の字をもって奏聞をしたということに対して、陛下は叡感をくだしたというのです。陛下が深く感動され、感心したというのです。そして「侍臣おおきに褒美す」というのですから、そのもとにおる臣下は、親鸞が禿の字をもって奏聞したことをほめたたえたというんですよ。これはどうでしょうか。ここまできますと、後序といわれる文章にわざわざ親鸞聖人が上皇の名前を名ざしであげて「主下臣下、法に背き義に違し」というた、その弾圧を受けて、そうして流罪死罪におうて、それが許された。その時に禿の字をもって姓としたといいますが、『教行信証』のいわゆる後序の文では流罪におうたということを通して、

しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもうて姓とす (聖典p398)

というふうに言い切ってます。親鸞聖入自身、はっきり禿をもって姓とする意味は、僧にあらず俗にあらずという問題を明確にするために禿の字をもって姓としたんだということを言うているのです。このように親鸞聖人自身が言うているにも拘わらず、その禿の字をもって奏聞したことを、陛下が叡感し、侍臣が褒美したということになりますと、親鸞聖人の一番重要な主張点というものが全く意味を失ってしまうことになる。

 これは、決して事柄について覚如上人にもの申しておるわけではなくて、そういう事実だということだけは、はっきり押さえておかなくてはいけないと思うのです。まさに「主上臣下、法に背き義に違し」と、こういうた文章を引きながら、その主上と臣下とが叡感を下し、褒美するというふうにこの文章を位置づけてしまったということです。これはやっぱり大きな問題じゃないですか。

 なぜ私がこのことを特にここで問題にしようとするのかと申しますと、その後に、いったい親鸞聖人は何歳のころ越後をさって関東へ行かれたのかということが、歴史家の間で問題になり、そして、いわゆる四二歳の時の三部経の千部読諦ということが一つの転機というふうに位置づけられて、そして常陸国へ行ったのだろうということになっていきます。その時の一つの問題提起にいつもなっているのが、

勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり(聖典p732)

という、「なおしばらく在国」というのがいったいどういうことかというのが、問題を見ていく一つの視点になっていくわけです。

 ところが、今のような視点から読んでいきますと、

陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり

というのは、かなりニュアンスが違ってきます。これだと、いわゆる弾圧された人が許されて関東へ行ったということになるんですよ。文章の脈絡からいいますと、許されただけではなくて、褒められて行ったのです。褒められる人として関東へ行ったということになります。

 こうなると、このあたりから、親鸞の関東二〇年、そして、それから京都へ帰ってきてからの三〇年、まさに五〇年というものは、どういうふうに位置づけされてくるかということです。この位置づけでいきますと、罪されたということは事実だけれども、罪されたことは許された。それも、ただ許されたんではない。また悪いことをするんじゃないかというふうに疑われて許されたんじゃなくて、完全に褒められ感心されて許されたという形で、それ以降が見すかされていくという、そういう書き方になっています。

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Last modified : 2014/10/30 22:11 by 第12組・澤田見