栂尾の明恵上人という方は、この「ただ念仏」の教えに真っ向から批判を加えた方です。法然上人が生きておられるときは、『選択集』という書物がまだ出ていませんでしたので、吉水の教団がいろいろ問題を起こすのは、弟子たちが悪いに違いないと思っていたのです。ところが法然上人が亡くなられて『選択集』が出たとたんに、これは仏法ではないと、猛烈な批判を加えられました。その中心は『選択集』には、ただ念仏ということだけを言い、菩提心を捨てるという過失をおかしている。ところが菩提心というのは道を求める心・悟りを求める心であって、これを捨ててしまったら仏教であること自体が成り立たないではないか。まず菩提心を起こして念仏もし、さらに高度な修行を重ねていくべきである。これが明恵上人の批判です。ここには仏教観の違いがありますね。

法然上人は、念仏だけが救いを実現する行だとし、他の行を全部捨ててしまわれました。これを諸行や余行という言葉でおっしゃいます。それはなぜか。このあたりを往々にして勘違いすることがあります。たとえば、山を歩く修行・座る修行・護摩を炊く修行などしなくても、念仏だけならば自分にもできやすいし、簡単だと考えるとすると、これは法然上人が否定なさった諸行の一つです。

法然上人のおっしゃる念仏とは、ある意味で私たちの出発点をはっきりしていくということです。私たちは仏教を学んでいること、仏道の入り口にたっているということを、自明のことにしていくのです。しかし、出発点が決まるのが一番の問題なのです。決まっているのかどうか問い返してみたらどうでしょう。歩んでいるつもりであっても、それは仏道でしょうか。聞法して段々と深まっているつもりになっているとすると、さっき言いました比叡山の修行と同じことになっているのです。「私は一生懸命浄土真宗のおみのりを学んでおります。もう何年もたちましたから、だいぶん経典のことばも憶えました」と。そうなると、今度は経典を知らない人を見下していくようなことが起こるわけです。また、序列を作っていく、さっき言った比叡山の仏教と同じ構造になっていきます。これを否定しておられるのが法然上人の念仏なのです。

お念仏とは仏を念ずる、仏を憑むいうことですが、裏を返していいますと、私たちは日ごろ仏をたのんで生きているわけではありません。自分の思いを当てにしているのです。さまざまな思いを当てにして助かろうとしているのです。それが念仏に対して諸行と言われるものです。この正体は自分の予定観念というか、自分は頑張っているから大丈夫などということを当てにしているのです。それは親鸞聖人のおことばを借りれば、全部「自力」と言われます。これが問題なのです。

法然上人が教えてくださった念仏というのは、人間の思いを破ってくるようなもの、つまり、私は念仏しているから大丈夫だとか、長いこと真宗の教えを聞いているから大丈夫だという思い込みですね。このような私たちの予定観念、これを破るはたらきを念仏とお呼びになったんです。この会で拝読させていただいている『一念多念文意』で、この念仏とはどういうことかをよく教えてくださっています(真宗聖典五四一頁)。途中からですが読んでみたいと思います。「一念多念のあらそいをなすひとをば、異学別解のひとともうすなり」、これは一念多念の争いということが一番問題だと言うのです。つまり、争っているというのは要するに、自分は正しい念仏者だということを自己主張しているわけですね。お互いに批判し合っている状況があったのです。しかし、そういうふうに争っていること自身が、実は法然上人からの流れから言えば念仏ではないんです。要するに、仏さまを念じているのではありません。自分を当てにして、自分を主張しているわけです。だから、自分は一念によって救われるのだという自分の思いを当てにしているのです。また、自分は多く念仏しているから救われると思う人も、やはり自分の思いを当てにしているわけです。どこにも仏さまは出てきません。

一念多念の争いをなす人を「異学別解のひとというなり」とまでおっしゃいます。「異学というは、聖道外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり」一念多念の争いをしている人は、実際にはお念仏の教えに出会っているはずであります。法然上人或いは親鸞聖人をご縁として、念仏の教えに縁を持った方です。その方をつかまえて、その争いをしているのは異学別解だ、結局聖道外道に赴いていると言うのです。あなたはお念仏をしているつもりかも知れないが、あなたの生き方そのものは聖道であり外道だというのです。自分の念仏は間違いないという思いにとらわれているわけですね。結局どうなっていくかというと、さらに余行、念仏以外の行をも修することに走っていくのです。これも決して笑えません。

私たちも念仏は大事だと言っております。けれども、念仏も大事だがそれ以外のことも大事、あのことも大事となります。ここでは余行といわれます。余仏を念じている。阿弥陀仏以外の仏さまをも当てにしている。そして、吉日良辰、日の善し悪しや方角の善し悪しを選んでいくわけです。占相祭祀、占や祭を好むとおっしゃいます。元気な時はこんなことにとらわれなくてもいいと言いますが、自分がちょっと病気になったりすると脆いものです。日頃は四とか九とかにとらわれるのはおかしいと言っている人でも、自分の病室に四番とついていたら変な気がするものです。ここには結局念仏ということが抜け落ちているのです。それを親鸞聖人は「これはひとえに、自力をたのむ」とおっしゃいますね。ひとえに自力を頼むといいます。

もう一つの別解のほうは、「念仏をしながら、他力をたのまぬなり」、つまり阿弥陀仏の本願のお力を拠り処としないということです。やはり自分の思いを当てにしているわけです。「別というは、ひとつなることをふたつにわかちなすことばなり、解は、さとるという、とくということばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆえに、別解というなり」。念仏しながらあれこれ解釈するわけです。ふたつにわかつというのは、要するにいい事と悪い事です。念仏をしながらもこれは本当の念仏、これは本当でない念仏などと、自分の思いでいろいろ分けていくのです。あれは立派な念仏者、これは立派ではないと全部自分の思いで決めつけていく。「証り」とここに言われていますが、これは本当の証りではありません、自分なりの解釈です。それが正しいと信じて疑わないあり方です。

最後に「また、助業をこのむもの、これすなわち自力をはげむひとなり」。助業というのは称名念仏以外のことで、たとえば経典を読誦し、仏様の世界を観察し、それから礼拝、讃嘆供養、これが助業と言われるものですが、これはお念仏を助けることになるとおっしゃるんです。しかし、それで救われるのではないということが大事です。例えば、お内仏にお参りすると言うこと、これはきわめて大事です。それによって本当の教えに出会うことの縁になるわけですね。お盆にお参りしなくていいとか、お彼岸にお参りしなくていいとか、そういうことを言う必要はありません。せいぜいお参りしたらいい、縁になることもあります。しかし、お盆にお参りをしていることと念仏の救いにあずかることは別問題です。そこがはっきりしませんと、結局お内仏にたくさんお参りしたから救われるんじゃないかということに必ず落ち込んでいくわけです。それをまとめて、次のようにおっしゃってくださっています。「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」。親鸞聖人にとって自力というのは、決して自分の力という意味ではありません。他力というのも、これは他人の力を当てにするということではありません。

自力というと「自分の力」だと、すぐに解釈されてしまいます。だから自力を捨てよというと自分で何もしないことだと思われがちですが、違うのです。自力というのは、我が身を頼む事だとまで言われます。つまり、身体が元気であるとか、自分はきれいであるとか、人一倍よく動くということを当てにしている心のことです。だから、それは逆に私たちを縛ってくるのです。自分で何もするなということではなく、当てにすることによって苦しんでいくのです。それが自力の問題です。我が心を頼むというのは、自分は真面目であるとか、人一倍心がけがいいということを当てにしているのです。ところが自分は真面目だと思っている人は、不真面目な人を見るともの凄く批判をしますね。自分は責任感が強いと思っている人は、無責任な人にはもの凄く冷たいですね。これが私たちの心の構造です。自分が当てにしているものによって、人を切っていきます。これが自力の問題なんです。

「わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」というのは自分の努力を積み重ねることによって、いいことをしてきたということですね。現代風に言えば、いろいろな業績を積み上げてきたことを誇るのでしょう。これが私たちの自力の本質です。だから誇ることによって、自分には値打ちがあると思うわけです。誇るもののない人を見ると、意味がないと決めつけていきます。

この物差しは人を計るだけではなくて、最後には自分をも計っていきます。つまり、元気がなくなってきて自分の考え方が間違っていたんじゃないかとか、今まで自分の積み上げてきた業績が吹き飛ぶようなことに出会ったりしますと、自分は生まれてきた意味がないのではないかとか、自分の人生は何だったのかと、自分自身の人生をも否定するような冷たい物差しです。これが自力の問題です。法然上人が念仏とおっしゃったのは、私たちのそういう思い込みを破ってくるはたらきが念仏だということです。こうすれば助かる、ああすれば助かると言っている発想を破るのが念仏なのです。しかし、その念仏の教えを聞きながら、またもや自分の思いに落ち込んでいくわけです。この在り方を聖道外道だと言われるのです。

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Last modified : 2015/09/16 11:25 by 第12組・澤田見(ホームページ部)