本願の眼

こういうことをみると、「濁世末代の目足」という言葉がありますが、本願というのは、私たちの目であり足であると言ってもいいと思います。私たちは自分の目で見ると、自分にとって良いか悪いか、得か損か、利用価値があるかないかと、すべての物を見ていくわけです。ひとつの問題に出会っても、その問題の根本を押さえるということはなかなかできません。自分の都合のいいように変えようとしたり、関わりたくない問題には線引きをして無視してしまうことすらあります。問題を見つめていく根本の眼ですね。それをいただくのが本願の教えです。教えによって現実を知らされ、知らされたところに自分にとって都合がいいか悪いかを超えて、初めてその現実に関わっていくわけです。「足」といわれますが、具体的に歩んでいく勇気が与えられることだと思います。私たちは褒められるのは大好きですから褒められることには一生懸命になれるんですが、あまり評価されないとなると頑張りが効かないということがありますね。誰かが見ていて褒めてくれるなら頑張る気がするというわけです。逆に褒めてくれないことはあほらしいとなるのです。ところが、それが本当に大事かどうかを確認していく眼というのは、私たちの中からはなかなかおきてきません。そのことを確認させてくれる問い返しを、本願の教えによっていただくわけです。だから知らされた時に初めて問題の中を生き抜いていくような力が湧いてきます。それが「荘厳主功徳成就」で言われていると思います。

もう一つ、読んでおきたいと思います。ここも大変よく読まれますが、「荘厳眷属功徳成就」です。眷属というのは仲間、自分のつながりあるものという意味です。私たちの世間はどうなっているかというと「おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属若干なり、苦楽万品なり、雑業をもってのゆえに」といわれます。生まれ方はバラバラ、いろいろな生まれ方がありますが、それぞれがそれぞれの生まれ方によって仲間を作っているわけです。人間に生まれれば普通人間のことしか考えませんね。人間は生きている人間のことしか考えられないような構造になっていますね。これが「眷属若干なり」ということです。人間同志でも民族の違い、文化の違いで争いをします。違う者は自分たちの仲間ではないという争いが起こったりします。全部が私の仲間だという世界観が開けないのです。それによって苦楽もバラバラだといいます。世界が違えば苦しみといっても楽しみといっても違うわけです。文化によっても違います。それが「雑業をもってのゆえに」と言われます。みんなそれぞれの業をもって生きておりますから、バラバラな世界というのはなかなか認められません。自分の発想を人に押しつけようとします。また、男であるとか女であるとか、そういういろいろなものでバラバラになっていくということが、私たちの世界の姿としていわれております。

それに対して「かの安楽国土は」といわれます。「これ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。眷属無量なり」といわれます。これは仲間が数限りない、無量だということです。皆が自分と関係している。仲間でない者はない。もっというと自分にとって都合が悪い者も、自分の関わりなのだという視点が開けてくる。これが本願が照らし出すいのちの世界です。だから本願に帰すというのは、私たちにとって案外都合の悪いことなのかも知れないですね。問題だらけの人生を、ある意味で抱えて生きていくということでしょう。だから、問題があること、さまざまなものが全部つながっているということ、これが私たちの現実だということ、自分自身の事実だということを教えてくださるのが本願の眼だと思います。本願によって私達自身が知らされるわけです。こんな関係を生きていたのかと。

もう少し具体的に見てみましょう。ご承知のように法然上人のただ念仏の教えは国を乱すということで、朝廷の決裁により、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流罪になりました。親鸞聖人は法然上人が亡くなられたあと京都へは戻らずに関東の方へお出でになります。ところが関東でもただ念仏の教えは危険思想だとにらまれるんですね。これにはやはり理由があると思います。ただ念仏に生きる人たちは、日本古来の神々を拝みません。神々を当てにしなくて生きていける力を、教えによって得ていたからです。権力者が力で押さえつけようとしても、押さえつけられないような、うねりのような念仏があったわけです。権力を求めている人は権力者に弱く、お金を欲しいと思っている人は金持ちに弱く、名声が欲しい人は有名な人に弱く、血筋を重んじる人は天皇に弱いですよね。やはり人間は欲しいものには弱いものです。ところが念仏者というのは、そんなものが人間の値打ちを決めるものではないと、突き抜けているところがあります。力をもってしても、金をもってしても、血筋をもってしても、なびかないんですよ。これは力を持っている人にとっては、不気味な存在だったと思います。決して念仏集団というのは数は多くないんですが、執拗に弾圧を加えます。

ところがその弾圧を加える人たちに対して親鸞聖人は何とおっしゃるかです。これは世のならいだ、というんですね。この手紙は、親鸞聖人が京都に帰った後も弾圧が続く中で、そういう弾圧を加える人たちとどう向きあっていったらいいのかという関東の人たちからの問いに応答するものです。親鸞聖人のご門徒というのは、お百姓さんばかりでなく豪族もいて、刀を持って一戦交えようかという力のある人もいました。それに対して親鸞聖人は、その土地に念仏を広められないようならば、縁が尽きたと思って縁のある所でお念仏を広めなさい、と言います。つまり争いをして戦いを起こしたからといって、念仏が盛んになるわけではないと誡められるんです。そして、そういう弾圧が起こってくるのはお釈迦さまの時代から変わらないことであり、仏法の世界というのは、なかなか人に明らかにならないものだということ、それはこの世のならいだとおっしゃいます。さらに当地の地頭や領主が弾圧を加えるのは、理由があることなんだとおっしゃいます。その理由の中味までは書いておられませんが、要するに、お念仏或いは仏法の大事さを知ないからだということです。仏法の大事さが分からないものだから、弾圧を加えるんだと言われていると思います。しかし、仏法は本当に大事ですから、弾圧を加える人にも仏法が伝わるようにお互いにお念仏をしていきましょうと。ですから弾圧を加える人に「あわれみをなせ」という言葉までおっしゃいます。これが親鸞聖人にとっての、「眷属無量」ということの実践であったと思います。

私ども、自分がお念仏に出会ったことは喜べても、出会ってない人を見るとどうでしょうか。へたをすると念仏に出会ったのは自分の業績のように勘違いし、出会ってない人を見て馬鹿にしたり、あの人はまだまだだと言いませんか。ましてや自分に弾圧を加えてくる人は、憎たらしい敵としか思わないですよね。しかし、親鸞聖人は自分が仏法に出会えたのは法然上人と出会えたというご縁によるもので、決して自分の才能でもなければ修行したという努力の結果でもないというんです。縁のたまものなんですね。「遠く宿縁を慶べ」とおっしゃるでしょう。そこを本当にご存知なものですから、出会っていない人を見ても、まだ宿縁が整っていないのだという眼で接していかれたわけです。たまたま縁が熟してお念仏に出会ったならば、出会っていない人のためにお念仏の道をすすめていきましょうというのです。これを支えていたのはやはり本願によって教えられた、眷属無量という世界だと思います。

こういうものの見方は、やはり私たちからは起こってこないんでして、教えによってそういう関係を生きているのが私たちであったかということを、知らしていただくということしかないと思います。だから親鸞聖人は、本当に本願に照らされた我が身を生きようとなさっていかれました。だからこそ先ほど業縁ということを出しましたけれども、いろんな関わりを生きているのが我が身の現実なのです。いい悪いということも決められないのです。ある時代に評価された事が、時代の流れによって評価されないどころか非難されることすらあるんです。どうでしょう、今度開かれる地球の温暖化防止会議はまさにそうだと思います。ここ三十年ぐらいは便利になった快適になったといって、皆で評価してきました。でも評価してきた結果、地球全部が壊れていくという中を、どう生きていくかという問題になっています。やはり今まで私たちがやってきたことが間違いだったんじゃないかという事が、自然の方から厳しく問われているわけですね。それから科学技術を推進してきたということは、ある時期は褒められていたんですが、決して褒められることばかりではないわけです。私たちは大体そんな生き方をしています。いつもよかれと思って生きているわけですが、そのやっていることが、時代が変わってみると、とんでもないことをしているということもあるわけです。五十年ほど前は戦争に協力するかしないかで国民か非国民かと言われた時代ですが、今度は自然環境のことが運動としては盛り上がりつつあります。これは大事なことです。やるべきだと思います。しかし、もう一方で運動をやっている者は世界を愛する人だと言い、やらない者を非国民呼ばわりするような発想も出ることもあります。これも恐ろしいことです。ですから私たちはいつも、運動や問題に関わっていることを正当化することが、今度は関わっていない者を切っていくという恐ろしさを持っているのです。そこに親鸞聖人の弾圧する者も切り捨てなかったという発想が、実は業縁という人間観に立っているわけなのです。自分のたまたま遇えた仏法の世界が大事であると思えば思うほど、それを単に主張していくのではなく、出会っていない人も一緒に歩んでいく、その人も見捨てずに抱えていくというのが、親鸞聖人が業縁を生きられた実際だと思います。

私たちは業縁を抱えたくないのです。自分にとって都合のいいことは引き受けますが、都合の悪いことはやっぱり切り捨てたいのです。でもそれは必ず無関係ではいられません。生きているということは都合の悪いことも必ずやってきます。何でこんな目に会わなければならないのか、というのは実は我が身に対する認識がまだ浅いんです。私たちがこの社会を生きている限りは、無関係なものなど何ひとつない、そういう関わりを生きているということを教えてくださるのが本願の教えです。大事なのは本願の内容です。いろいろと問題があるのは私たちの現実なんだということを知らしていただく、これが本願との出会いです。

Pocket

Last modified : 2015/09/16 11:25 by 第12組・澤田見(ホームページ部)