ただ念仏せよ

私の思い、自力を破ってくるようなはたらき、それが念仏であるということをはっきりさせないと、私たちの上に実現する救いということもはっきりしないように思います。つまり、私たちは日ごろ念仏という言葉に対して、自分の心を当てにしてやっているから大丈夫だと言うのと同様に、多分救われるはずだというその救いも自分の思い描いたものなのです。だから救いも自分の予定であり、それを実現する方法も自分で思い描いたものです。しかし、それが本当の救いであるか。また、その救いが本当に実現するのかどうか、一回根本から問い返して見る必要があるということを、法然上人・親鸞聖人から語りかけられているのです。

「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」というおことばがありますが、「ただ念仏せよ」ということを教えにおいて、どんな時代でも誰の上にも成り立つ平等の救いが実現するのだということを、法然上人から学びとられたのです。法然上人は「ただ念仏せよ」とおっしゃったんですが、親鸞聖人の受け止め方が本当に大事だと思います。親鸞聖人の受け止めは一言でして、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の西の暦、雑行を棄てて本願に帰す」とおっしゃいました。これは法然上人の教えに出遇ったとき、自分の上に起こった大きな決断ですが、これを「雑行を棄てて本願に帰す」とおっしゃるのです。雑行というのは、いろいろなものを当てにして、それによって自分の救いを自分で思い描いているあり方ですね。こうだから自分は大丈夫だろうとか、これを持っている限り自分は満足した人生を送れるだろうとか、いろいろなものを知らず知らず持ち込んでしまっているわけですが、それを棄てて本願に帰して生きる。これが二十九歳の時の決断として自ら書かれています。もちろんこの文章をお書きになったのは後々の事ですので、今申し上げた法然上人の教えがなかなか伝わらないことを受けて、この表現になったと思います。普通で言えば「雑行を棄てて念仏に帰す」とか「雑行を棄てて正行に帰す」という言葉の方がいいんでしょうが、いろいろな念仏に対する誤解があったものですから、「はい分かりました。ただ念仏します」とおっしゃらずに、「雑行を棄てて本願に帰す」となったのです。これが、ただ念仏ということの内容をよく語ってくださっていると思います。つまり法然上人のおっしゃる「ただ念仏」というのは、雑行を棄てるということを内容とし、さらに本願に帰して生きるということを内容にしているわけです。このことが確認されないと、ただ「念仏の教えに生きます」といくら言ってみても、自力の世界に落ち込むことになっていくのです。法然上人のお弟子がたくさんおられた中でこういう受け止め方をした人は、そうおりません。

「本願に帰す」ということはどういうことか、どんな生き方がそこから始まるのでしょうか。本願に帰したところに始まる人生、それを親鸞聖人は「往生浄土」といわれます。『教行信証』の証巻に、本願に生きるとはどういうことかを、真実の証ということで述べてくださっている部分です(真宗聖典二八二頁)。ここに親鸞聖人の考えておられる救いが、よく表れています。少し難しい言葉かと思いますが、もともとは『浄土論註』という曇鸞大師のおことばです。ここに浄土というのは功徳だと言われます。私たちは浄土というとどこかの場所だと思いがちですが、浄土に生まれるということは、そういう功徳を受ける生き方として曇鸞大師はおっしゃいます。つまり、死んだ後に別の世界に生まれ変わって他の世界に行くのではなく、本願に触れるところにこういう功徳を受けて生きていく。そういう人生が始まるのだということを「荘厳功徳成就」ということばであらわされます。

その中、今「荘厳主功徳成就」を取り上げたいと思います。「かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや」つまり、浄土というのは阿弥陀仏の善力に住持されている世界だというのです。どこかにあるのではなく、阿弥陀によって持たれている世界が浄土といわれているのです。どう持たれるかといいますと、「住は不異不滅になづく。持は不散不失になづく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに焦がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし、何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり」と、これは譬えです。決して朽ちることがない薬を種に塗れば、火の中に入れても焼かれることなく、因縁を得て芽を出す。それは種の力ではなくて、朽ちることがない薬を塗ったからだという譬えです。その譬えで何が言われているか、それが次に続きます。「もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと」というお言葉であります。

安楽浄土に生まれるというのは、決して自分一人が楽をしたいから、お浄土につれていってくれという話とは違う、ということが押さえられています。それは、ひとたび浄土に生まれた者は、逆にこの迷いの世界に生まれて衆生を教化するという。こういう課題を担うのだということが書かれています。『大無量寿経』の中にもすでに出ていることですが、浄土というのは決して私たちが個人的に楽になるために行くのではなくて、そういう世界にひとたび触れるといろいろな問題の真只中に戻ってくる、そういう願いをもつ存在となるのだと言われています。それが、いろいろな問題がおこって火が燃えさかっている中に生まれても、菩提を求めて行く種は決して朽ちることがないと書いているのです。大事なのは浄土だけが阿弥陀によって持たれているとは書いてないということです。ひとたび、浄土に生まれたならば、どんな問題だらけの娑婆世界に帰ったとしても、菩提を求めて生きるというその種は朽ちることがないと書かれています。なぜなら阿弥陀によって持たれているからだと言うのです。もう少しいいますと、阿弥陀によって持たれて生きるということが、浄土にひとたび生まれた者にたまわる功徳だというのです。決してその人が強い精神力をもっているとか、特殊な心構えをもっているからではありません。阿弥陀仏の力によるのです。これが親鸞聖人のおっしゃる救いの内容です。迷いや苦しみ、いろいろな矛盾や問題の起こる真只中にあって、まわりの人と共に迷いを超えていく、そういう課題を担う者になるということが救いなのです。

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Last modified : 2015/09/16 11:25 by 第12組・澤田見(ホームページ部)