本願を聞く

大切なのは、この問題ある人生が実は誰とも代わることのできない、自分自身の人生であるということです。これを「摂取不捨」ということばで教えてくださっています。「摂め取って捨てない」と。現代風に言えばどんな命も決して見捨てないということです。私たちの発想から言えば、問題があればつまらない人生だとなります。しかし本願の教えによって、問題は必ず起こるものであって、無数の関係を生きているのが現実だと知らされるのです。問題ある人生がつまらない人生なのでなくて、それが実は誰とも代わることのできない、かけがえのない人生だと知らされるのです。そういう励ましを与えてくださるのが本願です。

だから本願を聞くということは、浄土のたとえがいろいろと説かれますが、それを聞くことで「ああ、自分はこんな世界を生きていたのか」と知らされるのです。その中身は、問題が決して消えないさまざまな関わりを生きているということ。どれほど真面目に生きていようが世間の中で評価されたりされなかったりすることもあるのです。それこそ親鸞聖人は念仏しているだけで弾圧にまで会っておられるわけですが、それを「世のならい」だとおっしゃいます。それがつまらないことではなくて、そこが念仏を明らかにしていく現場だと立ち上がっていかれたわけでしょう。その現場以外に自分の生きていく場所はないのです。

こんなにつらいならもう一回生まれ変わりたいと私たちは言いますが、生まれ変わることなんかできません。辛くても、その現実こそがかけがえのないあなた自身の命を尽くしていく場所だと、励まし呼びかけてくださっているのが本願の教えです。だから本願を聞くということは、我が身の現実を知らしていただくということですね。私はこれをしているから大丈夫だとか、これを手に入れたからもう間違いないはずだとか、これをしているから私は評価されるはずだとかいろいろあるわけですが、そんな予定は業縁の中でふっ飛ぶわけです。しかし、逆に評価されてもされなくてもやり続けないといけない仕事があります。誰かが見ていてくれるからやるんじゃなくて、それぞれの現場で誰とも代われない命を尽くしていく、これが大事な仕事ですね。これは具体的には、つまらない人生ということを決めつけていく発想との対決といってもいいです。本願が照らし出すいのちに背いているのが日ごろの私たちでしょう。業縁を無視して「こうならなければ救われない」と言っているわけです。そうなった人生は値打ちがあるが、ならない人生は値打ちがないと言っているのです。つまり、私たちの思い込みを当てにして、値打ちある人生と値打ちのない人生を決めつけようとしているのです。だから雑行を棄てるというのは、あれは駄目とかこれはいいと思い込んでいくことを断ち切っていくことです。そのことを法然上人はただ念仏というふうに教えてくださいました。そしてその教えを受け止めた親鸞聖人は、雑行を棄てて生き、本願に帰して生きなければならないとおっしゃったのです。

念仏というのは、決して何回称えるとか、勉強して称えたら立派なお念仏とか、そうではないでしょう。そういう発想そのものが棄てられるべきものだと知らしていただくのがお念仏の中身です。こうでなければならない、ああでなければならないという思いが破られると同時に、本願が教えてくださるようないのちの世界を取り戻さなければならないということ、この二つが念仏において知らされるのです。宗祖は「雑行を棄てて本願に帰す」といわれました。私たちにはお念仏といってもこれがないわけです。結局この決断がないものですから、ナンマンダブ・ナンマンダブと言いながら、何遍言ったら助かるだろうかとか、勉強した方が本当の念仏じゃないかとか、そうやって自分を誇るための念仏になっていくわけです。

親鸞聖人が誡められるお言葉でいいますと、「智眼くらしとかなしむな」とか、「罪障おもしとなげかざれ」というご和讃のおことばがあります。私たちは仏法に縁を持ちますと、何遍聞いてもわかりませんとか、どれだけ聞いてもわかりませんとか、私のような者は駄目なんじゃないでしょうかとか、こういうふうに決めつけをします。でも、駄目じゃないかという意識は、本当はいい者になりたいという意識ですね。やっぱり自分を誇りたいわけでしょう。だから智眼、智慧のまなこが暗いといって嘆き悲しんでいるのは、実はいい者になれないと言っているのです。罪障が重い、罪が深いと嘆くのは、罪を消してきれいな者になって救われたいということの裏返しですね。しかし、大事なのはそんなことを嘆くことではありません。本願の教えによって私たちがどういういのちを生きているのか、無数の関わりを生きている世界を知ることです。それを教えられたからと言って問題が好きになるというわけにはいきません。けれども問題があってもそれは自分の人生の内容であったのかということを、受け止める眼こと勇気が与えられるのです。それに励まされながら歩んでいくというのが実際だと思います。だから念仏して生きる、これが常に雑行と決別し、本願を依り処として生きていくという内容を持っているということが確認されないと、親鸞聖人当時から多くの人が誤ってきたように、また自分を誇る道具になってしまうんです。

今日は信心までいきませんでしたが、最後に敢えて一言でいいますと、本願を念ずることによって知らされる、これを親鸞聖人は「深信自身」とおっしゃいます。これは決して親鸞聖人が自分で思いついたことではなく、教えによって知らされた内容だとおっしゃいます。一般的には機の深信と法の深信と言われますが、ひと言でいうと我が身がはっきり分かったということです。自分に起こった目覚めです。ああそうだったのか、こんないのちの世界があったのかという目覚めです。自分にはっきりおこった目覚めですが、自分がおこしたとは言えません。教えによって知らしていただいたのです。だから今度のテーマですが、「如来よりたまわりたる」と親鸞聖人は表現なさっているのです。この業縁を生きるということが、一番浄土真宗の教えの大事ところだと思います。

Pocket

Last modified : 2015/09/16 11:25 by 第12組・澤田見(ホームページ部)