いのちの願い 真城義麿

やっかいな存在

 本日の同朋大会の大会テーマは、「いのちの願いを ともに学ぼう」ということですが、それはそのまま、私が勤めさせていただいております京都の大谷中学校、大谷高等学校の願いでもあります。私は、例えば中学生に「宗教ってなんや?」と聞かれたときには、「いのちが元気になる教えや」と言っているわけです。

 さて、私がこの同朋大会へのお招きを受けた折、大阪教務所から大会のチラシが送られてきました。それを見せていただきますと、「若者による凶悪犯罪や授かった我が子に対する虐待など、今そういった事件が連日のように新聞・テレビ等で報道されていますが、まさにいのちの尊さが見失われているとしかいいようのないありさま。それが現代ではないでしょうか」といった書き出しの案内文が載せてありました。

 しかし、そのことの中で、この時代は、言葉づかいや物の伝え方、あるいは考え方など、すべてがさまざまなわけですけれど、私たち本願念仏の教えを聞く者の集まりとして「気をつけないといけないこともあるなぁ」と、思いました。

 まず、そのことから申し上げますと、今の文章にもあるように、テレビや新聞などの報道の仕方には、大変、問題があります。「未来を創るのは教育である」とは、最近よく言われる言葉でありますが、私は「未来を創るのは教育である。そして現代を造るのはマスコミである」と、こういうように申したくなります。確かにそういったところがありまして、マスメディアが現代というものをつくってしまう。雰囲気をつくってしまうということがございます。

 新聞でもテレビでも、マスメディアに関わる人たちは、全員が大人でございます。大人がある事件の報道するときに、何を映して、何を映さないか。何を報道して、何を報道しないかを区別しまして、そして、「これを映そう」と決定したものが日本中、世界中に流れていくのだということがあります。

 そこに、メディアに関わる大人たちの意識といいますか、そういったものが出てまいるわけでございます。私たちもいつの間にか、何やらどなたかに聞いたことよりも、テレビで言っていることの方が正しいと思うクセがついています。また、家庭であれば、親や先生が言ってることよりも、テレビで言ってることの方が信用できると、このように子どもたちも思っています。そういった点でいいますと、非常に大きな問題が、そこにあるわけでございます。

 しかし、そのメディアの報道の仕方というところに、私たち大人の、特に少年犯罪を起こす若者を、どのように捉えていくのかという場合、どういうふうに私たちが子どもを見ているのかということが、そこに反映されるわけですね。それはおしなべて、非常に乱暴な言い方をすれば、私たち大人が今の若者や子どもたちを、「問題の多い、やっかいな存在」というふうに見ているということがあります。この見方が、メディアや私たち大人の、子どもというものの捉え方の中に、含まれているように思えてなりません。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)