非人間化

 昨年は、私たち大人を震撼させる事件が幾つも起こりました。代表的なもので言えば、愛知県の豊川市で「人を殺す体験がしたかった」という理由で主婦が殺されました。人が死ぬ時を見てみたい。その人が死んでいく反応を見てみたい。その時に自分がどんなふうに感じるか、どんなふうに思うかを体験したかった、というのが動機でした。相手は誰でもよかったんです。殺した人と殺された人との間には、何の憎しみもなく、何の必然性もないわけです。

 その少年は、その主婦の家に行って、まず金槌で叩いて殺そうとします。ところが金槌で叩くんですが、殺したという実感がなかったそうです。それで次にナイフを出して、それで主婦を刺したんです。刺しても刺しても殺しているという実感が、手応えが感じられない。そのうちに四十数回刺してしまった。そういうリアリティといいますか、手応えといいますか、現実感といいますか。そういうものがまったくない。あるいは、自分自身がどこにいるのかわからないし、自分がここにいていいのか、悪いのかさえもわからない。

 酒鬼薔薇聖斗という子どもが書いた文章の中に、「透明な存在」という言葉がありました。そのことがずいぶん話題にもなりました。親にも、友達にも、自分は見えていないというふうにしか思えない。家庭の中にあっても、みんな腫れ物に触るような感じで自分を見ているということですね。

 以前、毎日新聞を読んでおりましたら、例えばゲームに夢中になっている子が夕食の時間になっても、ご飯を食べに部屋から降りてこない。それで親はどうするかといいますと、昔ならどうだったでしょう。今は、母親が子ども部屋へ、食事を運ぶケースが多いそうです。

 「人間」という言葉は何を表そうとしているのか。それに対して牛や馬、鳥や猿でもいいんですが、あらゆる動物の名前を思い浮かべてみますと、それぞれその動物を表す言葉(名前)がついています。それでいくと、私たちも「人」でいいわけです。しかし、「人」でいいのに「間」をつけて、「人間」と呼びます。私という「人」は、その「間」の上にあるんです。「間」とは関係性、つながり、コミュニケーションです。つまり人間関係というものがあって、はじめて私があるんです。こういったことが人間になっていくということなんです。

 ところが家族ぐるみで、せっかく人間に生まれたものを、どんどん非人間化していく。非人間化していくということは、つながりを切っていくということです。そんなことになっていないか、ということなんです。

 先ほど言いました、豊川市の少年の事件がにぎにぎしく報道されます。その報道を見ながら、一人の少年が、「先を越されてしまった」と思うわけですね。そして何をするのかというと、西鉄バスをバスジャックして走らせるんです。その車内で女性の方を刺し殺すといったことがありました。これも理由は目立ちたかった。豊川の少年に先を越されて焦った、と。こういったことですよね。その後、岡山では金属バットで、自分の母親を殴り殺すというケースがありました。よくはわかりませんが、今、申し上げた典型的な三つのケースは自分の母親、ないしは母親相当の女性が殺されたという点では、共通点がございます。私たちが子どもをどう育てるのか、関わっていくかということを考えるときに、どう見るべきなんでしょう。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)