生きるという実感

 あるいは、「朝まで生テレビ」という番組がありますが、番組の中で長い長い激論が行われている真っ最中に、ある若者から突然、「ところで、どうして人を殺してはいけないんですか?」っていう質問がパッと出た途端に、そこにいるみんなが明快な答えを出すことができなかった。そういうようなことがありました。

 すると、そのことで我々大人がですね、それを引け目に感じてしまう。なぜなら、近代合理主義といいますか、今のこの私たちの世の中は、きちんとわかるように説明がつかないとダメなんだ、という思いが強すぎますから、どうしても引け目に感じてします。

 しかし、世の中といいますか、私たちの人生は、説明のつかないことの方が多いものです。それにもかかわらず、説明がつかない限り、説得力がないといいますか、どうしても我々が引いてしまっている。そういう現実があります。

 例えば、援助交際をしてる女の子から、「だって誰にも迷惑をかけてはいないでしょう」と言われたときにですね、我々は返す言葉が出ない。あるいは言葉を出そうとして、もがく私がいるわけで、「ダメなものはダメ」と言えない。そんなところからも非常に今、私たち自身がしっかりしていないということを思います。

 人間に限らず動物は、何もない状態で生まれて、いろんなことを見聞きし、体験しながら成長していくわけです。私の思いですけれども、子どもというか人間っていうのは、ある面では受信機、受信装置といいますか、さまざまに起こっていることや声を、敏感に吸収することで成長していくということがあります。「これから、僕たち子どもはどうなっていくのか」というような言葉もこれは、そのまま大人から出た言葉であります。

 しかし、特に最近は個性の尊重でありますとか、個人を大切にするとかですね、ややはき違えられているなと思うのですが、何でもかんでも子どもに委ねてしまうということがあります。「子どもの人生ですから、子どもに決めさせたらいいと思っています」と、こういうふうに答える大人が増えていますが、それでは子どもが自分の人生を自分で決めることができるような素地というものを、はたして子どもに与え育てているのかということです。

 つまり、まず私たちが「こういう人生がありますよ」とか、「少なくとも私たちはこういった人生を歩んでいるのですよ」っていう、見本を示さなければならないんです。それではじめて子どもたちが、「あんなふうな生き方ができたらいいな」とか、あるいは「ああいうステキな会話ができるような大人になりたいなぁ」とか、そういうことをいろいろ思うわけでしょう。

 ところが残念ながら、そういうことはあまりないのです。「私はこのように生きていこうと選択し、決断して、自分の人生を引き受けています」ということが、大人や親にあってはじめて、「あなたの人生なんだから、あなたが選んで生きていきなさい」っていうことがあるんではないでしょうか。そうであればいいんですけれども、へたをすると私たちは、逃げてしまう。そんなようなところが、あるんではないでしょうか。

 子どもは大変に弱い存在であります。この現代という見えにくい社会の中ではありますが、大人のほうが不安一杯で、うろうろフラフラしていましたら、そういう大人が自分を守ってくれるとは、子どもはとても思えないわけです。むしろ、大人たちが子どもを怖れて、「子どもには子どもの考えがあるんだから、尊重しなければならない」と言って、引いてしまっている。そういう大人を、子どもたちが頼って生きていけますか。現代は、「お父さんとお母さんがいのちがけで自分を守ってくれているんだから、自分のできる範囲のことで、やれるだけのことをやってみよう」という、安心感のある育ちがなかなかできない。そんなところがあるんではないでしょうか。

 ですから実は、今私たち大人が問われているわけです。子どもたちは大人よりいっそう、生きることの実感がないわけですよ。生きるということはどういうことなのかという、生きるという実感がないわけですから、当然、死ぬという実感もありません。殺すという実感もない。また、殺されたくないという実感もないわけです。決して実感のない子どもばかりじゃありません。もちろん育っている子はいるんです。しかし、そういった実感のない子どもがいるということなんです。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)