先に生まれた者の責任

 しかし、そこにねらいを定めた阿弥陀仏の本願というものが、私たちには用意されているということなんです。私たちが全能者である限り、救いはないわけです。私たちは不十分なことしかできないけれども、少なくともここに本願を信じて私がいる、ということを若い人に示していかなければならないのです。本願を信じても、それでもまだうまくいかなくて、つまずいてばかりいる。その惨めで愚かな私の姿を見本として、子どもたちに示し続けていかなければならない。それが先に生まれた者の責任だと思います。

 そういうことをしないでですね、「子どもが大変だ」「子どもが危機」「子どもがもうわからない」、このように言っていても、それは何の解決にもならない。私たちの目の前に今、現にこうしてご本尊がおられるわけです。私たちはご本尊のある中に生まれてきて、また、南無阿弥陀仏ということをずっと教えていただいていく中で、育てられてきた。自分は何であるのかということは、毎日、お勤めしている『正信偈』の中にあるのです。

 それを、私たちの落第生の智恵の中で解決しようともがきあがいても、それでは闇が深まるばかりです。もつれた糸が、こんがらがるだけです。どうか時々ご本尊の前に身を置き、本当に尊いものは何なのか。何に向かって頭を下げるのか。このうまくいかない私が、なぜ生かされているのか。どういう力が私にはたらいてくださっているのか。そのことを考えてみてください。

 どういう願いが私にかけられているのか、そういったことに顔の方向が向く。念仏の「念」という字は、心がどっちを向くかということだと思います。心の方向だと思っています。念仏というのは、阿弥陀如来の方向に、私の最大関心が向き続けるということです。そういったことが念仏ということです。

 私たち自身が足元をしっかり見て、私たちが教わったことをきちんと、教わったこととして、自分の中に蓄えていかなければなりません。そして、そのことを子どもに示していかなければなりません。私たちには、フラフラしなくていい道が、既に示されているのです。そのことを確かめたくて、今日はお話しした次第でございます。ありがとうございました。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)