「身もまどい、ひとをもまどわして」

 それでですね、今、子どもたちを取り巻く問題の中で、先ほども言いましたように、どんどん個別化していくということがあります。切り離されていくということですね。呉智英という評論家は、今の若者たちを「コックピット的全能感をもつ」と言っています。今の若者たちの状況を、そういった言葉で表現していますね。

 コックピット的全能感とは、どういったことかと申しますと、コックピットというと戦闘機の操縦席です。一人しか乗っていません。周りはいろんな計器やボタンなどが囲んでおりまして、そこにジッと座っておれば、あらゆることができます。ミサイルを撃つこともできれば、通信することもできる。今、子どもたちは自分の座っているところを一歩も動かずに、リモコンでなんでもできる。インターネットで、世界中どこでも侵入できる。食事でも何でも、動かなくても手に入る。つまり、全能感というのは、自分より優れたものがないということです。

 テレビゲームですが、みなさんも子どもさんやお孫さんがやっているのを、のぞいてもらったらわかると思うんですけれども、いったい何をしているのか。ひたすら相手をやっつけています。駅のホームで二歳、三歳の、よちよち歩きのはじまった子どもたちが、どういった動作をしていますか。キックの練習をしているんですよね。あがらん足をあげてね。テレビのブラウン管で見た、キックするまねをしている。そうやって私たちは、子どもたちを育てているんです。

 そのコックピット的全能感。全能感っていうことはつまり、自分が何者の前でも頭を下げないでいいということです。私たち念仏者は違いますよ。常にご本尊とともにあるんです。常にご本尊の前で手を合わせ、頭を下げる。先ほど「いのちより大切なもの」という言葉を申しましたけれど、そういうものが私たちを支えている。今の私を成り立たせている。そんなことがあるということを、子どもや孫に伝えていかなければならない。先ほど「同朋の声」で、「本気で、熱意を持って伝えていきましょう」と、こういったことをおっしゃったけれども、私たちは、ついつい私たちの価値観の中で判断して、子どもたちに「人に迷惑をかけてはならない。人に迷惑をかけなかったら、少々のことなら何をやってもかまわない」と、このようにずっと言ってきたと思います。

 迷惑とはどういうことかと申しますと、これは人の世話になったり、手間をとらせたりということとは、全然別物ですし、そもそも世話になるのはお互い様で、遠慮すべきようなことではありません。そのことはよくお知りおき願いたいと思うんです。迷惑について、ご開山(親鸞聖人)の言葉で申しますと、例えばお手紙の中にあるのですけれども、

身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり(真宗聖典五六〇ページ)

こういったお言葉があるんですが、自分が迷っている。そしてそのことが他の人を惑わしている。これが迷惑なんです

 私たちが大事に聞いてきた本願念仏の教えを、あるいはご本尊の前で手を合わせるといったことを、きちんと伝えないということが大迷惑なんです。何も言わずそっとしておくことではないんです。しっかりとそのことを伝えていくということが、迷惑をかけないということになるということを、私たちはもっと自覚しなければならないと思います。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)