心が貧しい

 とにかく私たちは、戦後、豊かになりました。先ほどの教務所長さんのお話の中にもあったように、豊かになったつもりでいます。マザーテレサがはじめて日本に来たときに、最初のインタビューでどういったことをおっしゃったか、みなさんご存じでしょうか。「世界には貧しい国が二つある。一つはインド。一つは日本。インドはものが貧しいし、日本は心が貧しい」。そういったことをおっしゃいました。

 私たちはどうか。わがままが通って、世の中が自分の都合どおりになっていく。そして、そのために役に立つこと、それを「ご利益(りやく)」と、こう呼んでいます。私たちの幸せの求め方が、ずっとそういう方向だったんです。

 今、「自己チュー」という言葉が流行っています。つい最近、私は「自己チューという不幸」という文章を書いたわけですが、わがままが通れば通るほど、人は不幸になっていくのです。わがままが通れば通るほど、非人間化していくのです。ですから、何が幸せなのか、人間の価値観といいますか、そういったことを私たちはもう一度問いなおさなければならないと思います。

 私たちが日ごろ口にする「同朋(どうぼう」という言葉は、どういったことなのか。先ほど「同朋の声」の中でもありましたが、笑顔で挨拶が交わせる、あるいは、笑顔で言葉を交わせる人間関係の中に身があるということほど、幸せなことはないと思うんです。

 私たちはついつい、そういったものをモノで置き換え、お金で置き換え、地位や権力で置き換えてきましたけれども、今、そのどれをもってしても居心地が悪い。そういう状況になってしまいました。

 それでテーマに帰りますが、私たちは人間に生まれた。最初に「人身(にんじん)受け難し」と、『三帰依文』をみなさんと唱えましたが、私たちは人間に生まれたということです。人間に生まれた私たちにとって、「いのちの願い」というのは何かと申しますと、それは基本的に申しますと、人間としてともに生きるということですね。人間として、一切のいのちあるものと生きる、ということです。いのちあるものすべてと生きるということです。生きるということですよ。生きるということは、死なないようにするということではないんです。

 私たちは、いつもまにか豊かになりすぎて、日本中が天人ばっかりの世界になってしまいました。人間がいなくなって、天人ばかりになってしまいました。天人というのは全部が揃っている世界です。何でもあって、百点満点が当たり前の世界です。ですから何か一つでも不足すれば、もう腹が立って仕方がない。そういう世界です。私たちは、何もかもが豊かになって、便利になって、衣食住に困らなくなった。しかし、その結果どうなったのか。

 本当は、そういうことは何かのためにしたかったのです。不便や貧困や、危険や病気から解放されて、何かを実現するためにしたかったはずでしょう。しかし、その何かを忘れてしまって、周辺の材料ばかりかき集めることが目的になってきたんです。人間までもが、「人材」と呼ばれるように、材料になってしまった。

 私たちが、子どもを私の都合で育てる。ところが、育てようとすると、先ほどの話にもありましたように、子どもは私の都合などに合わせてくれません。親子っていうのは、みなさんのほうがよくご存じかもしれません。理不尽なもんです。そんな合理的説明だけで話が済むような、そんな問題ではありません。理不尽を親も子も、引き受けなければならないんです。都合に合わないことだらけっていうことを、引き受けなければならないんです。

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Last modified : 2014/12/21 22:48 by 第12組・澤田見(ホームページ部)