今月のことば/教化センターリーフレット2012/4
- 2015年11月20日(金)1:30
自力をはなれたる
これを唯信という
『唯信鈔文意』(聖典547頁)
親鸞聖人は、法然門下の先輩である聖覚法印が書かれた『唯信鈔』を大切にされます。そして、その標題の「唯信」ということについて、真実の信心で、虚仮(こけ)を離れたこころであると表され、その後に、標記の言葉を続けられます。
一般的には、本願他力といわず、他力本願といって、「他の人からの助力」という意味で使っているようです。また、「他力本願ではダメだよ、自分の力でで頑張らなくては」という言葉もよく耳にします。しかし、本来仏教では、そういう意味ではないのです。
親鸞聖人は、「たのむ」という語に、「憑む」という字をあてられます。我われがよく使う「頼む」という字には、「あてにする」という意味があります。しかし、「憑む」には、「よりどころとする」という意味があり、「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」ということなのです。
ところが、我われは、知らず知らずのうちに、自分の考え(物差し)を中心にして行動しています。また、そのことに何の疑いも持っていません。それを自力というのです。
親鸞聖人は、
自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり(『一念多念文意』)
といわれます。ただ、そういう自力の姿は、自分自身ではわからないのです。
日頃、自分の姿を知るためには、鏡に映してみないと、自分で見ることはできません。仏教で自分の姿を知るということは、教え・ことばによって、鏡に映し出されるごとくに、自分の本性が映し出されることです。そこに自力が知らされるのです。
(所出・教化センターリーフレットNo299 2011/4発行)