如来よりたまわりたる信心/一楽 真

近畿連区事前学習会講義録
1997年12月2日

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はじめに

大谷大学短期仏教科で、若い学生さんと一緒にいつも親鸞聖人のおことばに、学ばさせていただいております一楽と申します。

大阪教区の定例学習会に何回かご縁をいただいたことがきっかけで、近畿連区坊守会研修会にもご縁をいただくことになりました。定例学習会では親鸞聖人の『一念多念文意』を順に拝読していく形で学習させていただいています。今回の事前学習会と三月の一泊研修会にむけてのテーマとして、「如来よりたまわりたる信心」ということが掲げられております。『一念多念文意』を中心に、親鸞聖人がおっしゃるご信心についてお話をさせていただきたいと思います。

救いとは何か

「如来よりたまわりたる信心」という言葉は、『歎異抄』に出るおことばです。条文で言いますと、第六条といわゆる後序に出ています。後序を見ますと、法然上人の信心と親鸞の信心とは一つだということを、親鸞聖人がおっしゃっています(真宗聖典六三九頁)。

今、この御物語について詳しく見ていくことはできませんが、親鸞聖人と先輩の弟子である勢観房・念仏房という人たちとの間に、議論のあったことが伝えられています。親鸞聖人は「善信が信心も聖人のご信心もひとつなり」とおっしゃいました。つまり、信心というのは私においてもお聖人様においても、同一だということをおっしゃったわけです。それに対して先輩のお弟子たちは「そんなことがあるはずがないじゃないか」と言います。そこで親鸞聖人は「法然上人の智慧や才覚が広い事に一つだというならば、それは確かに間違いでありましょう。しかし、往生の信心においては全くことなることなし、ただひとつなり」とお答えになります。それでも先輩方は納得しません。「どうしてそんなことが言えるのか」と言って、法然上人の前に出て、ことの是非をはっきりさせましょうということになったわけです。法然上人はたったひとことで「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」とおっしゃいました。

この勢観房・念仏房という人たちは、法然上人のもとで長く教えを聞いてこられ、きちんといただいておるという自負の思いがあったと思います。それに対して、「最近入ってきたあなたの信心が、どうして法然上人のご信心と言えるのか」とおっしゃるわけです。つまり信心とは、人間の能力や、どれだけ学んだか、どれだけ仏教の言葉について理解を持っているか、そういうことが信心の深さを決めると思っておられたのでしょう。しかし、親鸞聖人は「往生の信心」とおっしゃいます。私なりに言ってしまいますが、人間が迷い苦しみ、お互いが傷つけ合っていくということを超えていく、それを親鸞聖人は往生の信心と言ってくださっていると思います。それは誰においても同じであると言われたのです。そのことをまさに証明してくださるかのように、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおっしゃったわけですね。これは、信心が別だとおっしゃるならば、「私が行こうとしている浄土」、「私が生まれようとしているお浄土」には行くはずがありません、とまでおっしゃいました。

「往生浄土」、これは要するに人間の救いを意味していると思います。人間にとって何が救いかということですね。信心は誰においても同一であり、信心が違うと言うならば、私が救われていこうとするあり方とは全然違うことを目指していると、法然上人はおっしゃいます。ですから何によって救われていくのか、それが「如来よりたまわりたる信心」という言葉で押さえられているのです。

その救いとは何かというと、ここではお浄土という言葉でいわれています。これは現代の私たちにとってもなかなかはっきりしないのではないでしょうか。昨今いろいろな宗教がはやっています。どの宗教も救いということは必ず言います。ただ、いろんな救いがあるのではなく、結局は自分の要求に合うようなものを救いと思っているだけです。

ところが浄土というのは何によって救いが成り立つかというと、『歎異抄』では「如来よりたまわりたる信心」によって往生すると言う。たまわった信心によって救われると言っているわけです。救いとは何か、さらにどうやってその救いが実現するのか、この二つの問題がこの物語で言われているように思います。

法然上人は比叡山でずっと学ばれた方ですが、山を下りて吉水に草庵を結び、ただ念仏の教えを説かれた方です。ただ念仏の教えを選びとられて、それ以外の行は人間の救いを実現することにはならないと捨ててしまわれました。人間が苦しんだり、お互いに傷つけたりすることを超えていく道はただ念仏にある、ということをおっしゃってくださったのです。ところが、その大事さがなかなか伝わりませんでした。なぜなら、念仏は大変低いもののように見られていたからです。つまり修行するのが正統な仏道であって、修行できない者のために念仏という程度の低い仏道がある、という見方が常識になっていました。現代でもこの発想が強いのではないでしょうか。「なぜ念仏なのか」、これが法然上人がいらっしゃる時でもなかなかはっきりしなかったわけです。ここに親鸞聖人の大事なお仕事があります。

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Last modified : 2015/09/16 11:25 by 第12組・澤田見(ホームページ部)