(4)季節の美味

 現在、私たちは、食品の加工技術や、促成栽培、抑制栽培などの技術が発達したために、本当にその食品素材が有している季節的な持ち味というものを忘れてしまっているように思えます。そこで、自然が私たちに与えてくれている<味>そのものの意味を、料理研究家の辻嘉一さんの言葉によりながら考えてみたいと思うのです。

「日本がいかに季節の味に恵まれているかは、四季折々に自然が与えてくれるものを考えてみるとよくわかります。まず、正月ごろに芽を出す蕗のとうに始まって、四月頃までには蕨、薇、独活、筍、また蒲公英、蓬、土筆などの野草が出てきます。これらはいずれも繊維質のほろ苦い味をもったものばかりで、冬の間の運動不足でこわした胃腸の働きをよくし、便通をととのえるのに格好のものであります。なんともいえないほろ苦さは、まさに自然が恵んでくれた季節の美味であり、保健薬であります。
 このように見てまいりますと、自然のものをいただくことが、いかに健康によいか、おわかりだろうと思います。そして、また自然は私たちのからだが欲するもの、からだが必要なものを提供してくれているのであります。」(『食味』PHP発行)

 このように、季節とかかわりをもった食べ物の持ち味を辻嘉一さんは<滋味>とおっしゃっています。

 今日、私たちが忘れていた<滋味>(自然が恵んでくれた季節の美味)をもう一度、再発見すべき時期に来ているのではないでしょうか。私達の祖先はこのような味にも一つの言葉<滋味>を残してくれているのですから ・・・。

 <醍醐味>という言葉は皆さんもよく御存知だと思いますが、すばらしい感動を味わうときに<醍醐味>を味わうとよく使いますが、醍醐という言葉は『涅槃経』の一節にあり、親鸞聖人は『教行信証』の身仏土の巻にその部分を引文としてつぎのように引き出されています。

「善男子、譬へば牛従り乳を出し、乳より酪を出し、酪従り生蘇を出し、生蘇従り熟蘇を出し、熟蘇従り醍醐を出す、醍醐は最上なり、『醍醐』というは仏性に喩う、仏性すなわち是れ如来なり。」

 このように釈尊は仏性、如来の世界のたとえとして「醍醐」を引き出されていますが、現在の我々には醍醐なるものの味は、はたしてどんなものであったのか、はっきりしません。推測ですが、牛乳から発酵熟成された最上のものが醍醐なのでありましょう。すばらしい<妙味>をもったものだったのでしょう。

 現在ではこのように自然に発酵熟成された食べ物がほとんどなくなり、食べ物から直接「醍醐味」を味わうことは困難になっています。しかし、味噌でも、漬け物でも、酒でも本当に自然に熟成されたものは、事実おいしいものだと思います。前述しました<滋味(自然の恵みによる味)>と同様に発酵熟成する食べ物も、人間が加工するのではなく、自然の働きをまち、いのちの通いを大切にすることによって生まれてくるものではないでしょうか。そして、食生活ばかりでなく、あらゆる場面で<醍醐味>を味わうことがなくなってしまった現代だからこそ、また反面<醍醐味>を追い求めているのも確かであります。この<醍醐味>への道こそ人類の悲願ではないでしょうか。

 我々は毎日、三度三度おいしいとか、うまいとか、まずいとかいいながら、あるいは無感動のまま黙々と食事をしていますが、むかしから日本では「薬食一如」、中国では「食薬同源」といわれているそうです。そしてその言葉のうちには、食べ物にはそれぞれ薬効があり、食養生と治病ができるという意味が含まれているのでありましょう。<薬味>という言葉も、そのような思想から生まれて来たのでしょう。辻嘉一氏はつぎのようにいっておられます。

「生姜は、山葵と比べると値も安く、しかも何にでも使えるという点では庶民的で、便利な薬味であります。生姜は魚の臭みをとるのに適しており、しかも薬効があるので、中国でも薬味の最たるものとしております。風邪をひいたときには、生姜のおろし汁に砂糖とお酒の熱燗を入れて飲めば直りますし、なかなか結構なものです。」

 この他に、他の<薬味>や食べ物についても、それらの薬効について述べられています。ところが、現代の我々は、栄養素とカロリーだけを考え、我々の祖先が発見して来た、それぞれの食べ物の持つ働き、効用などを忘れているのではないかと思われます。

 このように考えてみますと、料理というものは、食べ物の持つ<持味(うま味)>を生かし、その上にそれぞれのもつ働きを生かしていく事ではないでしょうか。

(5)生活の知恵

 料理というものは、食べ物の持つ<持味>を生かし、その上にそれぞれのもつ働きを生かすことではないかと述べたのですが、それらの持味・働きを生かす方法として、味付や料理法のほかにそれぞれの持味を生かし合う食べ物の組み合わせというものがあるのではないでしょうか。その点について料理家の辻嘉一氏はつぎのように述べられています。

「人と人との間に相性があるように、食べ物にも相性があります。筍とわかめ、ひじきに油揚、昆布と大豆 ・・・。みなそれぞれに相性のよいものです。一緒に入れて煮ると不思議に味が交流して、二つのものが四にも五にもなり、おいしい味になるというのは、昔の人達が何百年もかかって工夫し、考え出したものだからです。ほんとうによく考えたものであります。
 片方は海のもの、もう一方は里のものですが、それを一緒にするという知恵は、なにかのきっかけでもあって考え出したのでしょうが、ほかにも一緒に煮えるものがあるのに、これが一番おいしいことを教えてくれた祖先に対して、私たちは感謝をしなければなりません。」

 このような食べ物の相性を学ぶうちに、我々が祖母や母が料理していたのを見たり、聞いたりしながら育つうちに本当に素晴らしい智恵(情報)が伝達されてきているんだなと、感動をおぼえずにはいられません。

 「隠の数学」(『願海』誌)のなかで

「長い歴史のうえに、根源的に、原則的に、すでに実証されたものがあるということは大切です。過去の歴史を否定して、現在も未来もひらかれることはありません。我われは未来に出会うことは過去を通してはじめてなり立つことです。」

と述べられていますが、これは味の世界でも同じことでありましょう。辻嘉一氏は、その過去にすでに実証された素晴らしい味の世界を讃嘆されていると同時に、現実の我われが、本来の味の世界を忘れて闇におおわれているのを見て悲しんでおられるのであります。だからこそ、声を大にして叫んでおられるのでありましょう。

 先日、辻嘉一先生と対談させていただきましたときに、学校給食を問題にされて「その土地でしか食べられない味(岩手県は岩手県の味)を、そしておふくろの手作りの味を、味覚の発達する子供のときに伝えないと・・・」と、おっしゃっていましたが、ある学校で、そういう願いのもとから弁当の日を作ったところ、お母さんがたは競って豪華な弁当を作られた、ということを聞きました。このように、ともすると私たちは、本来の願いをふみはずして形だけを・・・弁当を作るという形だけを追い求めようとしていることがあるのではないでしょうか。それは日常のさまざまなところで気づかないうちに、そのようなすりかえをしてしまっているのではないでしょうか。もう一度、子供をもつ親として、本来の願いの心にかえることが求められている時期にきていると思います。

(6)生態系の回復

 朝日新聞に「二十一世紀への提言」と題して、食糧問題が取り上げられていました。その中に、「いやそう、土と海の疲れ」「呼びもどせ自然のリズム」という表題とともにつぎのような文がありました。

「生態系の受容力が損なわれると、土壌の悪化が急速に進み、回復力が失われていく、これまで、科学への過信と工業的発想、ひと口で言えば人間の論理で自然を屈服させようとしてきたが、自然の論理に激しい反発をうけ大きな転換を迫られてきているのである。食糧生産の長期安定は生態系の回復と維持が基礎にならなければならない ・・・」

 ここでは、生態系の回復ということが重点的に述べられていますが、我々日本民族の祖先は日本の風土にあった生態系を長い時間をかけて発見し、それを親から子へと言い伝えて来たはずであります。戦後、我々はそれらの歴史的なものを古いものとして否定してきたのではないでしょうか。ここらでもう一度、我々は、我々の祖先が培ってきてくれた宇宙の生態に対する智恵を、耳を澄まして聞いていかなければならないと思うのです。食糧生産ばかりでなく、料理法や味についても学ばなければならないことが多々あると思われます。それぞれの地域、風土で培われてきたものを大切にしようではありませんか。そういう一歩一歩が、生態系の回復につながっていくのだと思います。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見