(16)共通の言葉と普遍性

 西欧の科学そのものが、思想背景の異なる他民族にも、伝播可能な形態にまで発展していたことが、日本人にも理解しえたのだということを学びたいと思います。

「すでに述べてきたような、日本内部での翻訳の努力だけでなく、すでに西欧科学じたいが、外へ伝えるのに好都合な文化形態に変容されることが必要である。つまり、科学は伝播可能な形をとってはじめて、異質文化圏にも伝えうることになったのにほかならない。
 この点、西欧科学そのものが歴史的変貌を遂げ、文化的形態を変えてきたという、その経歴こそが注目されねばならない。近代科学が日本に伝えられたと、一言でよく片付けられる。しかし、これはけっして、近代科学が西欧で生まれたときのそのままの姿で日本に伝えられたことをいうのではない。ガリレイ、デカルト、ニュートンが生きていた時代の科学は、いまだに日本人にとっては理解困難なものである。むろん、その背景にある西欧文化の異質性が、われわれの理解をさまたげるからである。
 日本は、ようやく十九世紀になって、西欧科学を本格的に受容しはじめるのだが逆にいえば、十九世紀の西欧科学であればこそ、日本人にもようやく理解しやすいものとなっていたのである。
 日本人に伝播可能であった西欧の科学・技術とは、要するに日本人の思考法でも理解しうるところまで、歴史的変貌を遂げた後での科学・技術にほかならなかった。西欧の科学・技術がそこまで受容を遂げてきたのは、いうまでもなく、十八世紀以来の啓蒙時代、産業革命期を経た上で、伝統文化に根ざす思弁的な性格をぬぐい去り、合理的な実用知としての形式的整備を整えていたということなのである。たとえば、ニュートンの書きのこした著作を理解するのに、ぜひ要請されるような、古代・中世の伝統的な西欧文化――キリスト教の理念とか、ギリシャ的思弁とか――への理解は、直接にはもはや必要ではなくなっている。日本が受容しえた科学・技術は、それを発生させた文化基盤の異質性にはかかわりなく、実際に運用してゆけばしだいに習熟しうるような知識や方法にまで、すでに整備されていたものである。
 さらに重要なのは、それぞれがある制約された形態をとりながらも、どのように普遍化をめざしてすすんでいるかを、克明に確認することであろう。西欧は西欧なりに、また日本の科学・技術は日本なりに、それぞれの伝統文化に照応しながら、いかなる普遍化への道をたどっているか、その点を究明することこそ必要である」

と辻先生は述べられています。では、その文明開化期(一八六八年)頃のヨーロッパで、思想・科学・技術の分野で、どのようなものが発表されているかをここでご紹介します。

 マルクス『資本論』(独・一八六七)、ダーウィン『種の起源』(英・一八五九)、マクスウェル『電磁気学概論』(英・一八六一)、ノーベル『ダイナマイト発明』(スウェーデン・一八六四)、シーメンス『自励発電機の発明』(独・一八六七)などがあります。一八六九年にはスエズ運河も完成しています。

 先生が言われますように、この頃になりますと、すでにキリストの理念などは廃除されていることがよくわかります。

 文明開化期に苦労して翻訳されたことも忘れ、最近では、外来語をその発音をカタカナで安易に表現しています。このことは日本人が英語に慣れてきた一面を物語っているのかもしれませんが。一般の人々には科学・技術用語が非常に理解し難いものとなっているのではないでしょうか。

(17)仏教の歴史

 文明開化期から先人達のご苦労を通して、どのように科学・技術が伝えられ発展してきたかを、辻先生のご書物によりながら考えてまいりました。ところが原稿を書いておりましたとき、ふと、じゃ仏教はどうだったのだろうかという思いが湧き上って来たのです。

 そこで、科学技術のことはしばらくの間お休みをいただいて、仏教の歴史について書かせていただきます。

 読者の皆さま方の中にはご専門の方も大ぜいおられて、いまさら何をと思われるかも知れませんが、小生の頭の整理のため、お付き合い下さい。

 今月はざっと中国の善導大師のあたまりでを年表として載せさせていただきます。

 BC五世紀頃 お釈迦様がお生まれになっています。

 BC三世紀頃 アショカ王即位。このころ第三結集が行われる。

 BC二世紀頃 原始仏教聖典が成立しています。

 BC一世紀頃 それまでの小乗仏教に対して大乗仏教運動が起こる。

 AD一世紀頃 初期大乗経典の成立

 AD二世紀頃 龍樹『十住毘婆沙論』を著す。同じ頃、支婁迦讖『般舟三昧経』を訳す。

 驚くべきことで大乗経典成立から一〇〇年ぐらいで漢訳されていることになります。

AD三世紀頃 中期大乗経典が成立、康僧鎧『大無量寿経』を訳す。今日、真宗でいただいている訳本です。

 AD四世紀頃 天親菩薩『浄土論』を著す。龍樹菩薩から約二〇〇年経たことになります。

 AD四〇一年 鳩摩羅什『阿弥陀経』『十住毘婆沙論』を訳す。『小経』の方が『大経』より訳が新しいのです。

 AD四二四年 彊良耶舎『観無量寿経』を訳す。この『観無量寿経』は未だ原典が見つかっていないそうです。

 AD五世紀末 曇鸞大師『浄土論註』を著す。六世紀に入ってからかも知れません。天親菩薩から一世紀半ぐらい後です。

 AD六世紀頃 中国では慧遠、天台智○が活躍、この頃日本に仏教伝来。

 AD六〇九年 道綽禅師『安楽集』を著す。

 AD七世紀中 善導大師『観経疏』を著す。同じ頃、玄奘、長安にインド求法の旅行から帰る。

 東本願寺出版部発行『大乗の仏道』より、抜粋いたしました。善導大師から親鸞聖人までおよそ五百年、親鸞聖人から現在まで約八百年経たことになります。

(18)大乗仏教の勃興

 仏教の歴史を素人は素人なりに、多くの先生方のご意見によりながら尋ね歩きたいと、自己の能力もわきまえず思い立った次第です。つぎに大乗仏教の芽生え、起源についてお話ししたいと存じます。

「阿毘達麿(法の研究)仏教が隆盛をきわめていくなかで、仏教は極度に学問化し、あたかも仏教スコラ哲学ともいうべき様相を呈するにいたったが、もとより仏教がそのような状況に停滞してしまうことはなかった。やがて、マウリア王朝によるインド統一が実現し、紀元前二五九年のことと推定されるアショカ王の仏教帰依と、王による仏教中心の政治が機縁となって、仏教は民衆の生活に浸透し、その結果、在家仏教が急速に発展していった。すなわち、釈尊ゆかりの巡礼地や仏舎利の伝播した土地などに、仏塔を中心とする聖なる場所が設けられるようになり、アショカ王を頂点とする在家信者たちの宗教心が、単なる帰依者、供養者にとどまらず、伝道に参加することを求めるようになったと考えられる。加えて、出家者の間にも、阿毘達磨に終始するあり方にあきたらず、在家信者とともに伝道生活に従事することによって、そこに新しい仏教の可能性を見出そうとするものが出てきたということも容易に想像されるのである。
 アショカ王ののち、紀元前二世紀に入るとマウリア王朝は急速に衰退していった。そのころから、西北インドには、かつてのアレキサンダー大王のインド遠征の足跡もあって、異民族、とくにギリシャ人が侵入し、その後、長らくその地方を支配するようになった。そこでは必然的にギリシャ文化とインド文化との交流が盛んとなり、仏教もギリシャ文化の影響を受ける一方、仏教徒となるギリシャ人も多くなっていった。
 また、クシャーナ王朝のカニシカ王のころになって盛んになったと推定される。ガンダーラ地方に出現したギリシャ風仏教美術などもある。なお、仏陀がはじめて仏像として彫刻されるようになったのは、このギリシャ文化の影響によるといわれており、ギリシャのアポロン神彫刻の表現技法をもって仏像がきざまれたことから、このガンダーラの仏像はアポロン仏ともよばれている。
 このように仏教は、ギリシャ文化との活発な交流と、阿毘達磨仏教に甘んじることのなかった仏教内部の新しい動きとあいまって世界宗教として飛躍すべく胎動していた。このようにして、インドが世界の諸文化交流の中心となったクシャーナ王朝の時代にいたって、仏教もまた、世界宗教としての性格をそなえてきたのである。そして、サンスクリットが聖典語となることによって、巨大な構造の神話と無限の思索力とによって著わされた初期の大乗経典が、経典文学として文化史上にあらわれてくることとなるのである。」(『大乗の仏道』より抜粋)

 大乗仏教の興隆の大きな要因として、他民族、他文化との出会いがあげられると思います。その理由を言いあてることはできませんが、歴史が物語っているように思います。単一の民族では、閉鎖的になりがちなのではないでしょうか。科学技術の分野でも今日、創造性が要求されていますが、日本の大学や各種の研究機関に外国の方々を受け入れているでしょうか。確かに、大学院の学生などには、外国人も多くなってきていますが、主なる研究員はほとんど日本人のみで固めています。真に他文化との交流がないことが、創造性に欠ける一因となっているのではないでしょうか。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見