七、すべておあたえ

この頃、私は「すべてがお与え」と思うようになりました。すべてがお与えであると気づいた時、そこに意味がみつかってきます。越後の念仏者貞信尼は「要るものはお与え下さる。要らぬものは捨てさして下さる」といっています。求道の上で、私にとってどうしても必要ならお与え下さるし、仏道を歩む上に、私にとって不必要なら、すてさして下さるのです。

すべてがお与え。この私は都合のよいものはうけとるし、都合の悪いものはうけとろうとしません。私の都合のよしあしをこえて、一切がお与えであるとうけとっていくのです。「一切」ということが大事です。仏教の精神は「一切」ということです。たとえば「一切皆苦」ということがいわれます。

一切が苦である。あるのも苦、ないのも苦。健康であるのも苦、病気であるのも苦。財あるのも苦、財のないのも苦。子あるも苦、子のないのも苦なのです。それが転ぜられて、一切がお与えであるとうけとらしめるものがナムアミダ仏でありました。

ナムアミダ仏とは智恵であります。転成の智恵であります。

金子先生は一字説法の「転」の項で、

転とはコロゲルである。立場を失ったのである。しかれば成は、立ち直りか。南無とコロゲて、阿弥陀と立ち上がる。それが転成の正智である

と述べられておられます。一切が苦であるとしていた立場が失われて苦であることにかわりがなくても、それをうけとっていけるとき、これもお与えであったと、立ち上がっていけるのであります。

無始以来つくりとつくる悪業煩悩として、どれ程かこの煩悩をもてあましたことでありましょう。真面目な求道者であればある程、この煩悩で苦しんだものでした。しかし、この何としてみようのない煩悩が、実はお与えであったとうけとったとき、この煩悩がかえって菩提心をもえたたしていくのではなかったでしょうか。
凡夫であるということは、煩悩が熾盛であるということをあらわします。腹も立たず、欲もおこさず、泣き言一つもいわないで、いつもしずかに微笑して泰然自若としておられるような人、偉い人であるかわかりませんが、宗祖聖人のお言葉をおかりすれば「あやしく候いなまし」(p630)であります。

実は煩悩が熾盛であればある程、それが転ぜられたとき、菩提心をたしかなものにする要素になっていくのであります。瞋恚のために親鸞聖人を殺害しようとまではかった山伏弁円は、聖人にあい、転ぜられて、生涯を仏弟子明法房として誕生しています。柿の渋さが、太陽の光に照らされて甘さに転じていくようなものです。
「名聞さまがあるので御恩がよろこばれる」といった人もあるし、「今までは悪(煩悩)を敵と思いしに、悪こそわれらの智識(善知識のこと、わたくしを育てみちびいてくれる人のこと)なりけり」と、よんだ人もあります。仏道の上に立って、煩悩はお与えであったと、うけとれるのであって、仏道という一点を外したら、煩悩はまさしく身をわずらわし、心を悩ます精神作用になってしまいます。

まさにすべてがお与えであったのです。

健康であることもお与えであれば、病気であることもお与えなのです。お与えという一点を忘れますと、健康であることが何ら喜べません。そして病になれば、自分だけが何故、こうして苦しまねばならぬのかと、他をうらみ、家族のものに当たりちらして愚痴しかでない暗いものになってきます。それがお与えであったのだなと気づいた時、そうだ、健康であるために仏法のお役に立つことができるのだ、仏法のお役に立つために健康が与えられているのだと、うけとれてきます。

病気になった、平素あくせくと我が身忘れて走りまわっていたこの私に、静思せよ、人生を深めよ、自分をみつめよという機会があたえられたのだ、とうけとっていけるのであります。働くとは働くことだけではありません。感ずるという働きもあったのだなと、開かれていくのであります。足の悪い人が、ゆっくりとしか道を歩むことができない、これはゆっくりと、一歩一歩、人生を味わって歩めというおはからいであったんだな、病恩だな、といっておられます。すべてがお与えということから、ひらかれる境地であります。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見