私たちの非戦の誓い

私たちの宗派は真宗大谷派ですが、今日の資料(表紙裏参照)に「不戦決議2015」が掲載されています。この上の段に書かれています「不戦決議」という文章は、今から二十一年前の一九九五年(平成七)に真宗大谷派が社会に向けて発信し誓った非戦の誓いです。その中に、戦争中に教団は何をしてきたのか。そして、今ある私たちは何をしなければならないのか、ということが書かれています。

真宗大谷派は、戦争中に戦争を罪悪だと見抜くことができなかった教団です。そして、たくさんの若い人たちを戦場に送ったという歴史があります。そのことをこういう言葉で謝罪し、非戦の誓いとしたわけです。

不戦決議

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。
この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧(は)じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。
さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。
私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。

右決議いたします。 一九九五年六月十三日 真宗大谷派 宗議会議員一同
一九九五年六月十五日 真宗大谷派 参議会議員一同

真宗大谷派は、毎年春の法要期間中の四月二日に、全戦没者追弔法会という法要を、本山・東本願寺でお勤めします。この「不戦決議」を今日お配りしましたようなパンフレットにして、繰り返しこの言葉を確認する場となっています。そして、それぞれの教区、例えば久留米教区(福岡県・佐賀県の範囲)においてはこれを木の板に掘って、教務所の講堂に掲げたりしています。
二〇一五年(平成二七)には奥羽教区(秋田県・青森県の範囲)が、「不戦決議」を啓発ポスターにして全国の寺院に配布しました。

私たちは、繰り返しこの「不戦決議」を確認する必要があるのです。特に「これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して」とありますように、「もう二度とこんなに悲惨な戦争を起こさない。未然に、起こる前に防止するその努力を惜しまないのが私たち宗派の仕事です」と確認していくことが大事です。

そして、今、私たちのこの社会で「戦争を未然に防止する努力」とはいったい何をすることなのか、一人ひとりの僧侶、一人ひとりの門徒が一回考えてみましょうと、呼びかけているのが「不戦決議」の言葉です。

宗門が見捨てた人たち

もうひとつ「不戦決議」の中の注目してもらいたい部分が、「かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞う」とあるところです。

戦争中、もしくは戦前の日本社会において、四海同朋といいますか、国の境を超えてアジア太平洋地域の人々は同朋だと、つまり、共に生きる人たちだという視点を持って生きようとしたがために「非国民」にされ、国家から罪人(つみびと)とされた僧侶がおられました。そういう僧侶を私たちの宗門は見捨てました。
その人たちに「心からなる許しを乞う」と書かれています。「許しを乞う」ためには、まずその人たちがどういうことをされたのか、その歴史を掘り起こすことが大事です。

どんな人か、どういう名前か、どこの人なのか。その人はその時何をしたのか、その行為に対して宗門はどういう対応をしたのか。その結果、その方はどうなったのか、そのご家族はどうされているか。そして、そのような歴史に対して今、私たちは何をするべきなのか、そして、この歴史を次にどう伝えていくのか。「許しを乞う」とは、こういう取り組みを継続し続けていくということです。

戦争に反対した僧侶

真宗大谷派の僧侶の中で、戦争中、戦争に反対した、もしくは戦争が始まるまでの時代社会の中で戦争を生み出すような事柄に対して宗祖の教えをもって反対した、そういう僧侶がいらっしゃいます。

資料4「髙木顕明」

資料4「髙木顕明」

今日は、大阪教区のお一人である髙木顕明さん(資料4)についてお伝えしたいと思っています。顕明さんが生まれたのは、江戸時代末期、名古屋のご出身です。志をもって僧侶となり、和歌山県新宮市の浄泉寺というお寺のご住職をされていました。顕明さんが生きられた時代は、明治維新を経て、日本は富国強兵、殖産興業でもって国づくりをしていく時代でもあったわけです。

顕明さんは、人生の中で大きな戦争を二つ経験しています。日本が、はじめて外国と戦争をしたのが日清戦争です。一八九四年(明治二七)から一八九五年に清国、今の中国と戦争をしました。そしてその十年後、一九〇四年(明治三七)から一九〇五年に起こったのが日露戦争です。

日露戦争と言いますと、今から三年ほど前のNHKの大河ドラマ「坂の上の雲」を覚えておられますか。主人公の秋山好古、真之の兄弟は、私の故郷の愛媛県の松山出身の方で日露戦争の時に武勲を挙げた軍人です。道後温泉の近くには「坂の上の雲ミュージアム」という、秋山兄弟を顕彰する記念館があります。ロシアという大国と日本は戦争をしましたが、その原因は中国の「満洲」や関東州の租借権・鉄道敷設権等を巡る利権争いですね。戦場は日本の国土でもロシアの国土でもなく、朝鮮半島や中国の遼東半島であったわけです。

その日露戦争に際して、この顕明さんは真宗の教えに基づいて戦争に反対をします。顕明さんが残された『余が社会主義』には次のように書かれています。

極楽世界には他方之国土を侵害したと云う事も聞かねば、義の為ニ大戦争を起したと云ふ事も一切聞れた事はない。依て余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る。

(『余が社会主義』・『高木顕明の事跡に学ぶ学習資料集』真宗大谷派(東本願寺)所収)

私たちは、極楽の世界を「浄土」と言うことが多いですね。「浄土真宗」の浄土です。
ですから、顕明さんの言葉は、「極楽(浄土)の世界には、他方の国土を侵害したということを聞いたこともなければ、正義のために大戦争を起こしたということも、一切聞いたことが無い、だから私は非戦論、非開戦論者である」となります。そして「戦争は、極楽(浄土)という故郷を心に分かち持つ人間のすることではない」と、はっきりおっしゃっています。
顕明さんは、こういう言葉で、日本とロシアの戦争に反対し非戦を説いたわけです。

しかし、教えは教えとしてありますが、私たちは娑婆の世界を生きているわけです。戦争をする国の中で、「仏教の教えは不殺生であって、親鸞聖人の教えで戦争はしない。戦争せよと聞いたことがない」とどんなに表明していても、戦争の状況になった時には、教えに生きたいと願っている僧侶も戦争に巻き込まれてしまう、そういう歴史がありました。

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Last modified : 2020/04/28 18:00 by 第12組・澤田見(組通信員)