教義に照らして反対

資料5「浄泉寺旧本堂」

資料5「浄泉寺旧本堂」

では、どういう形で巻き込まれていくか。この写真は(資料5)、顕明さんが住まわれていたころの面影を残す浄泉寺の旧本堂です。

では、どういう形で巻き込まれていくか。この写真は(資料5)、顕明さんが住まわれていたころの面影を残す浄泉寺の旧本堂です。
高木顕明さんと同じ時代に、新宮教会で牧師をされていた沖野岩三郎さんが、顕明さんが亡くなられた後に(私は、顕明さんは殺されたと考えていますが)、顕明さんの事績をたくさんの小説で書き残されています。その中の『煤びた提灯』には、高尾という名前で顕明さんが登場しています。少し長いですが読んでみます。

高尾が町内真宗寺院の僧侶達から排斥され始めたのは日露戦争の始まった頃からであつた。
各宗十一ケ寺の僧侶達は『皇国戦捷敵国降伏大祈祷会』を聯合で五日間執行しようといふ事の相談会を開いた。夫れは町の有志から寄附金を募集して
参詣者には御供の餅を配らうといふのであつた。
各宗の僧侶達は一も二も無く夫れに賛同したが、高尾は独り其の相談に賛成しなかつたのである。彼が賛成しなかつた理由は、自分の宗旨は絶対他力であつて、決して禁厭祈祷の如き事をなすべきもので無いといふ単純な理由であつた。しかし他の僧侶達は其の教義上の主張には毫も耳を傾けないで、頭から忠君愛国といふ言葉で高尾にも強いて賛同させようとしたのであつた。
これが平信徒の会合なら兎も角、一宗一派の僧侶であり、殊に其中には宗教大学で角帽を被た事のある住職も居るのだから、今少し理解のある議論も出さうなものだと思つたが、皆といふ皆が悉く白い眼でもつて高尾を見た。夫れは彼が近頃耶蘇教の牧師と交際したり、社会主義者と往来したりする為、さう云ふ連中の議論に気触れて非戦論を主張するのだと観られたからであつた。
会議の結果は矢張り敵国降伏の祈祷をする事に決つた。そしてこれから宴会に移ると云ふ時、高尾は少し用事があるからと云つて直ぐ会場を出て家へ帰つた。
帰つて見ると隣村の禅寺に居る相谷といふ若い僧侶が来てゐた。相谷は高尾を見るや否や、「おい、敵国降伏をやりに行つたのか。」と素見すやうに言つた。「いや、此方が降伏させられて来たよ。」と高尾は苦笑しながら言つた。「矢張りやるのだらう、馬鹿な真似を。」「とうとうやる事に決つたよ。しかし僕は飽まで反対して来た。」

(『煤びた提灯』・『失はれし真珠』所収 沖野岩三郎 和田弘栄堂・警醒社書店)

市内には十一の寺院がありました。真宗のお寺が三か寺、他に日蓮宗・浄土宗・曹洞宗のお寺があったわけです。どこの町内でもそうでありますように、それらの寺院は、仏教会という形で宗派を超えて連携をとっていました。

日露戦争が始まって、地元の仏教会が行ったのは、敵国ロシアを降伏させ日本の勝利を祈祷するという『皇国戦捷敵国降伏大祈祷会』です。
各宗の僧侶たちが、一も二もなくそれに賛同しましたが、高木顕明さんは一人賛成しなかったのです。彼が賛成しなかった理由は、自分の宗旨は絶対他力であって、祈祷の類をなすべきではないという単純な理由でありました。つまり阿弥陀様以外はたのまない。南無阿弥陀仏以外は必要としない。何かの為に、神様に祈願するとか、もの忌みするとか。そういうことは、真宗門徒は絶対にしないという単純な理由です。

しかし、周りの僧侶たちは、ことごとく白い目で顕明さんを見るのです。なぜならば、最近、耶蘇教(キリスト教)の牧師、これは沖野岩三郎さんご本人のことですが、その牧師や社会主義者との交流があるため、そういう連中の議論に気触(かぶ)れて、非戦論を主張するのだとみられたからです。それでも、顕明さんは一人最後まで反対します。

しかし、たちまちに困ることになります。何に困るかというと、例えば法事やお葬式があっても、もう呼ばれないのです。町内十一か寺の和を乱したということで様々な場面で敬遠されていきます。この町で大谷派の寺院は浄泉寺だけです。やがて孤立無援になってお寺の経済は大きな打撃を受けるわけですね。

お経を誦んで戦争に殺された亡者の魂が浮かばれるか

資料6「忠魂碑」

資料6「忠魂碑」

日露戦争は、日本の勝利で終わりました。日本は、一等国の仲間入りをするわけですけれども、日清戦争の時のようにはロシアから賠償金を取れませんでした。日清戦争の時は、台湾を植民地にして、さらに清国からたくさんの賠償金を取って、それをもって殖産興業に資して、八幡製鉄所を作ったりしたわけですけれども、日露戦争ではそういうことができませんでした。

そればかりか、戦争が終わってみると、日清戦争の時よりも沢山の戦死者が出ていました。高木顕明さんの小さな村、新宮市からも戦争に行って亡くなった人が出ました。やがて、その亡くなった方の処遇が問題になります。すると戦争で亡くなった人の慰霊をしようという動きが起こってくるわけです。

写真(資料6)は、現在熊野速玉大社に移設された忠魂碑と呼ばれる塔です。日露戦争後にこの地域で亡くなった方々を慰霊するために建てられたものです。

当時の事情についても、沖野岩三郎さんが『彼は斯うして死んだ』という小説の中に、書き遺されています。
こちらも読んでみます。

折も折、此の町の各宗寺院が発起して、町はずれに招魂碑を建てて毎年春秋二期に招魂祭を執行しようと云ひ出した。その動機は寺院の方で先鞭をつけないなら、神官の方で官幣大社の境内に招魂碑を建てられる、さうなれば仏式の招魂祭が出来なくなる恐れがあるといふのであつた。
九ケ寺の住職たちは一も二もなく此の建議に賛成した。しかし唯ひとり彼は頑然として反対した。しかも、彼の信ずる真宗の教義から賛成し得ないのであることを声明した。けれども他の僧侶たちは彼の教義論に耳を傾けないで、ヤソ教にかぶれた不忠不義論だと云つて一斉にけなしつけた。その中に物のわかつた禅僧侶の一人が、彼の肩をたゝいて、
「そんなに生真面目なことを云ふものではない。はいはいと云つて賛成して置け。おれなぞは、記念碑だなんて、平べつたい石を建てゝその前で生臭坊主どもがお経を誦んで、それで戦争に殺された亡者の魂が浮ぶなんて、そんな馬鹿げた事を思つてゐやしない。たゞ大きな声をはり上げて南無たあかんのうと呶鳴つて置けば、幾らかのお布施にも有りつく、祭りのあとではみんなが一杯飲めるといふので、賛成々々と、云つて置くんだ。おい賛成と云へ、賛成と云へ!」と云つて笑つた。けれども、彼はたうとう賛成しなかつた。

(『彼は斯うして死んだ』沖野岩三郎・『文芸春秋オール読物』第一巻第一号所収)

この文章の中から、神道と仏教が何となく競い合っている気配がうかがえますけれども、神道に先だって招魂祭を行おうという声が仏教会の方から上がったということです。

しかし、「彼はたうとう賛成しなかった。」高木顕明さんは、こういう生き方をした方です。

遊郭設置に断固反対

資料7「当時の新宮の遊郭」

資料7「当時の新宮の遊郭」

もうひとつですね、顕明さんが反対した日露戦争が始まると、各都道府県の主だったところに兵舎が設けられていきます。
そして兵舎が設けられると、悲しいことにその近辺には遊郭が建てられました。この当時、公の遊郭がないのは群馬県と和歌山県だけだったわけです。けれども兵舎が作られることが決まると、遊郭が誘致されることになりました。(資料7)

顕明さんは遊郭の設置にすごく反対されました。なぜなら、遊郭に行かざるを得ない女の子たちは貧しい家の女の子たちです。顕明さんのご門徒で日頃からお参りしている被差別部落の人たち、その人たちは、親鸞聖人からお預かりしている御同行でありますが、そこで本当に爪に火を灯すように生活している貧しい家の女の子たちが、遊郭で売り買いされていくことになります。だから顕明さんは遊郭設置に対して強く反対されたのです。

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Last modified : 2020/04/28 18:00 by 第12組・澤田見(組通信員)