大逆事件に連座

資料8「大石誠之助」

資料8「大石誠之助」

日露戦争に反対した人たちは、新宮には何人もいらしたのですが、何人かは一九一〇年(明治四三)に起こった大逆事件で逮捕されます。大逆事件とは、明治天皇暗殺を計画した首謀者とされた幸徳秋水さんら社会主義者の人たちと、彼らにゆかりのあった者が連座して逮捕された事件です。

その中には、新宮地方の人たちも含まれました。大石誠之助さん(新宮・死刑)、成石平四郎さん(請川・死刑)、高木顕明さん(新宮・無期懲役)、峯尾節堂さん(新宮・無期懲役)、崎久保誓一さん(三重県市木・無期懲役)、成石勘三郎さん(請川・無期懲役)の6人が、でっち上げの容疑で犠牲となりました。

この写真(資料8)、大石誠之助さんはお医者様です。「ドクトル(毒を取る)大石」と言われて、お金持ちからは医療費を取るが、困窮している貧乏な人からは医療費を取らなかったと言い、町の人たちからの尊敬を集めていました。

こちらの写真(資料9)は、左から崎久保誓一さん、大石誠之助さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、この人は禅宗のお坊様。それから、新村忠雄さん、この人は信州の人です。そして玉置新吉さん、この人は大石誠之助さんと親交があったため大逆事件の影響で教師を止めざるを得なった人です。

「大審院の公示」(資料10)に、孝徳傳次郎とありますのは、幸徳秋水さんの本名です。菅野スガさん(ペンネームは須賀子)という女性が一人おります。この方は、日本基督教団天満教会で洗礼されていたとお聞きしていますが、新聞記者や著述もされた女性ジャーナリストの先駆けのお一人です。高木顕明さんも名前が挙がっています。

大審院(現在の最高裁判所)は「大逆罪」を適用し、二十四名に死刑判決を下します。そのうちの十二名は死刑となりますが、残りの十二名は減刑されて無期刑になりました。無期刑になったお一人が、高木顕明さんでした。

資料9「大逆事件に関連した人々」

資料9「大逆事件に関連した人々」

資料10「大審院の公示」

資料10「大審院の公示」

大谷派教団から追放する

戦争をする国で、戦争に反対することは非常に勇気がいることです。しかし、高木顕明さんは教義に基づいて戦争に反対しました。

先ほど申しましたとおり、『余が社会主義』の中では、「自分の信仰に基づいて極楽世界には正義のために戦争したということは聞いたことがない。浄土をふるさとに思う者は戦争などするものでない」と書かれています。また日々の生活の中で、真宗の僧侶として戦争の祈祷や必勝祈願などはしない。戦争で亡くなった人を特別に忠魂碑で祀ったりその前でお祀りをしたりしない。と、どこまでも親鸞聖人の教えを大切にした生き方をされたのです。

宗派は、大逆事件の直後、高木顕明さんを住職差免として住職をやめさせています。そして死刑判決が出た途端に、「擯斥処分」とし、教団から追放します。つまり、「非国民はあっちへいけ、宗門とは関係ない」と、非常に冷たい処遇をしたのです。家族はその中で路頭に迷います。ご門徒はご住職を失い「逆徒の寺」の名を被せられたわけです。

長い間、真宗大谷派は、このような処遇をしたことすら忘れていました。一九九六年(平成八)、八十四年目にやっと高木顕明さんやご家族、ご門徒に対し謝罪し、復権・名誉回復をしたわけです。

もっとも、それまでにも地道に顕明さんの事績を掘り起こす研究調査を続けられた方々もいらっしゃいました。ここ大阪教区でも教区の事業として高木顕明さんの歴史を掘り起こすという取り組みをされてきたのです。

一九一〇年という年

もう一点大切なことがあります。大逆事件が起こった一九一〇年(明治四三)とは、どういう年かということです。この年に、日本は韓国を併合しました。大韓帝国という国が地図から無くなりました。韓国を併合して植民地にし、中国大陸に進出する大きな足場にしたのです。詩人の石川啄木さんは、「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」という句を残しました。

その同じ年、日本国内においては非戦や平等、社会主義や自由を唱えた人たちを弾圧し殺します。新宮出身で詩人であり作家の佐藤春夫さんは、その当時「わが郷里なる紀州新宮の町は恐懼せりと」と、町の空気が「恐懼」へと変質したことを書き残しています。日本の近代史の中で、大きなターニングポイントになったのがこの年なのです。

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Last modified : 2020/04/28 18:00 by 第12組・澤田見(組通信員)