GHQの神道指令

さて、このように私たちの国では、今から七十一年前の一九四五年(昭和二〇)までは神社や神さまは「公」のもので国家と一体だったのです。「公」のものですから神主さんは公務員です。

今は神道と仏教、キリスト教等は、それぞれ別の独立した宗教ということになったわけですけども、一九四五年までは、神道は社会習俗であったり社会通念であったり、もっと言えば国民が道徳として守るべきものであって、それぞれの宗教の上にあるものだったわけです。

一九四五年日本は敗戦を迎え、その後GHQ(連合軍)に占領されます。GHQはその施策の中で、日本人の心の中で戦争を推進する精神的な支柱になったものが何かを研究します。欧米の社会から見れば、玉砕とか特攻とか、自らの死を恐れない兵士たちのその精神は認識しがたく、それらを支えたものは何かを探ろうとしたわけです。
昨日私は、知覧の特攻平和資料会館に行きました。そこで、若者が命を賭して身を賭して、犠牲を強いてまでも戦争を遂行した私の国の歴史を改めて学びました。

GHQは、日本人にあの無謀な戦争を遂行させた支柱は国家神道であり、国民道徳の姿をした宗教だったと結論付けます。そして出されたのが神道指令です。一般的に神道指令と言われますが、正式名称は「国家神道、神社神道に対する政府の保障支援、保全監督並びに交付の廃止に関する件」という指令です。

そして何が止められたかというと、まず政治と宗教を分けましょうということです。政治は政治、宗教は宗教。政治の中に宗教を持ち込まないということです。
一九四六年(昭和二一)、戦争が終わった翌年の正月、天皇裕仁が国民にしたことは「人間宣言」です。私は人間ですと宣言をしました。

天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

天皇は人間宣言をして、神から人間になりました。けれど人間になった天皇をまだ神にし続けたい人がいるかも知れません。そこで国家神道を廃止し、国家と宗教、政治と宗教を徹底的に分けましょうということを決めたのです。
それと同時に、日本人にとっての八百万の神々、どこの村にも鎮守の森があり神社があります。そういう神社は民間の宗教として存続させることにしたのです。

そして、それまでは国家神道の下に仏教やキリスト教があったのですが、それを止めて大きな水平の土台の上に仏教もキリスト教も神社神道も、同質の価値を持つ宗教として戦後は行きましょう、と決めたわけです。

そしてそれまでの宗教の統制法規、宗教団体法、それから神祇院管制、神社関連の全法規を停止して国家神道体制というものを無くします。

自由を守る条文

戦争の終わった年、それぞれの神社はどのような形で存在していくかを問われました。ちなみに、東京九段坂にある靖国神社は、それまで陸軍省、海軍省が所管していましたから、一時は廃止する案もありましたが、東京都が所管する一宗教法人として残るという選択をしました。あくまでも、一つひとつの宗教法人は憲法の上に同等なのです。
そして憲法第二十条とは、信教の自由を謳うことによって、国家と宗教を完全に分離することを保障する条文なのです。それは信じさせられなくてもいい自由を守る条文でもあります。無理やり国家神道という宗教を信じなくてもいいということです。

日本国憲法に非常に厳格な政教分離規定が提示されているのは、国家神道体制が歴史的経過において戦争遂行の精神的支柱になったという事実から、そういうものはもう止めましょうということなのです。

もう一点は、私たち日本人の非常に多元的・重層的な信仰と言われている宗教状況を鑑みたということです。多くの日本人は、お正月は神社に初詣に行き、クリスマスはキリスト教のようなお祭りをし、お葬式は仏教式であったりとか、最近はハロウィーンに仮装したりとか、非常に無自覚な多元的・重層的な宗教状況であると言われます。

ところがこのような中では、少数者と言われるイエスキリストの信仰を守っている人たち、もしくは私たちのような浄土真宗、南無阿弥陀仏だけで他の神々は特に必要ないと思っている者たちが、生きにくい状況があるのです。

こういう空気のような同質化を要求される中、「信教の自由」を条文化して「一人ひとりの信仰を大切にしていきましょう。信じなくてもいい自由もあるんですよ」ということを規定したのが憲法第二十条です。今日はそういうことを申しあげたかったのです。

日本独自の国家主義

大逆事件の翌年一九一一年(明治四四)、河上肇さんという経済学者が、『日本独特の国家主義』という文章を残しておられます。この中で河上肇さんは「学者はその真理を国家に犠牲にする、僧侶はその信仰を国家に犠牲する」と言っておられます。

日本人の眼中脳中心中最も高貴なものは国家をおいて他あらず。故に日本人は国家のために何事何者をも犠牲にするといえども、何事何者のためにも国家を犠牲にするを肯んせず。国家は彼らがあらゆる犠牲を供する唯一神にして、彼らは国家を犠牲とすべき他の神あることを夢想だもするあたわず。彼らにとりて最上最高最大の権威を有するものは国家にして、国家以上に権威を有する者あるべしとは彼らの決して想像しあたわざる所なり。ゆえに学者はその真理を国家に犠牲し、僧侶はその信仰を国家に犠牲す。これ即ち日本に大思想家出でず大宗教家出でざる所以なりといえども、しかも日本人は国家の存立と相容れざるが如き思想宗教を味わうの要求を有せざるが故に、彼らはかかる大思想家大宗教家の出でざること悲しまず、あるいはむしろ悦びつつありというを得べし。

(『日本独特の国家主義』河上肇)

ここで言われている「彼ら」というのは私たちの事ですね。
河上肇さんは、日本人が何ものにもまして一番大事にしているのは国家であり、国家というものを神様にしてしまって、唯一の大事なものにしていませんかと問いかけています。学者はその学問的な真理を国家の犠牲にし、宗教家は信仰・信心というものまで国家のための犠牲にしていると語られています。この言葉から、もしかしたら今の時代でもそういうことがあるのでないかと私は思います。

先月の四月十四日に熊本に大きな地震が起こった後も、すぐ近くにある川内原発は止まりませんでした。この一か月間に千回以上の大地の揺れがあるにも関わらず原発は止まりません。原子力工学を専攻する専門家や学者さんたちにとって、これほどの恐怖はないでしょう。しかし、原子力発電所を止めよ、という声が原子力の専門家と言われる学者の方々から出てきましたか。 学者はその真理を国家の犠牲にしていないかと、少し思うわけです。

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Last modified : 2020/04/28 18:00 by 第12組・澤田見(組通信員)