三、いま一人の私

深海魚ひかりにとおくすむものは
ついに目をうしなうとあり
(堀口大学作)

深い海の底にすむ魚は、太陽の光より遠く離れていますので、ついに目が見えなくなるということです。秋芳洞にすむ魚も、目がないということを聞いたことがあります。勿論、目はあるでしょうが、見えないのですから、ないのと同じことです。生まれたての乳児は、きれいな目をしていますが、ものは見えませんし、音も聞こえません。それが三、四ヶ月して見えるようになり、聞こえるようになるのは、光があるからであり、音があるからです。だから目をつくるのは光であり、耳をつくるものは音であるといえましょう。

私たちが目をもち、耳をもってうまれ、さまざまなものを見、聞けるということは、まことに幸せなことでありますが、真実の光明にあうということがないと、真実のはたらきを見ることも、感ずることもできなくなります。だからこの目はあっても無眼人、この耳はあっても無耳人となってしまいます。

世界の奇跡の人といわれたヘレン・ケラーは、生後十ヶ月にして熱病のため、三重苦という重度の障害をかかえた不幸な少女になってしまいました。病院も見はなしたこの少女を、だれかすくってくれるものはないかという、父の涙の訴えにアン・サリバンという女性が家庭教師として赴任しました。彼女の献身的な努力が身をみすびました。

盲唖教育専門のパーキンス学院で、彼女の教育法をみようと千余の人が集まりました。この不幸な少女は果して何をしゃべるのか。好奇の目の前で壇上のヘレン・ケラーは左手で詩の本をまさぐりながら、右手を高く上げ、その文字を空中に書いてゆきました。同時にサリバン女史は、空中にあらわれては消えていく文字を、すばやい早さでよみはじめました。深い感動と、驚きのどよめきがおこり、この朗読は大成功をおさめました。

ヘレン・ケラーは、その後の血のにじむ努力の末、口で話す技術をおぼえ、ハーバード大学を優秀な成績で卒業し、著作もし、社会事業家として世界を講演してまわり、かくして三重苦を克服したのです。彼女はこういっています。
「私にとって大事なのは私以外の教師ではない。いま一人の私が必要なのだ。それはサリバン先生である」と。

私以外の教師は外から、ああせよ、こうせよというが、三重苦の私にはどうしてみようもありません。「いま一人の私とは、わたし自身にまでなってくれる人、私の目となり、耳となり、口となってくれる人でなければならないのです」

凡夫とは惑染のものと正信偈にあります。煩悩にそまってしまっている存在です。なにがそろわなくても、煩悩だけはそろって充分なのです。一つのことを完成しようとするのは、大変な努力が必要です。僧鉄眼は一切経の版木を完成するのに十七年かかりました。だが、私たちにとって煩悩だけは努力なしに、すでに完成し、成就しているのです。

煩悩成就、煩悩具足、煩悩熾盛の凡夫人の見ること聞くことすべては、煩悩によっていろづけされています。煩悩とは「使」・「縛」・「結」などともいわれ、「蓋」とも「覆」ともいわれますが、煩悩によって私は使われ、縛られ、結びつけられ、真実を感ずるはたらきを覆い、蓋をしてしまうのです。煩悩の目でとらえたものをまことと思い、煩悩の耳で聞いたことを正しいと信じてしまいます。ヘレン・ケラーは「いま一人の私」といいましたが、つまり、煩悩成就凡夫人の目となり、耳となってくれるもの、「いま一人の私」とまでなって下された如来、それこそ信心のはたらきのほかになにもありません。信心は智恵としてはたらきます。この智恵は如来の智恵ですから、煩悩はどれ程はたらいても、それによって影響をうけることはないのです。見えてくる真実を、覆い蓋をすることはありません。毒蛇とまでいわれた煩悩に縛られることも、かまれることもないのです。

『阿弥陀経』に「かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす」(p128)と、あります。ここからして阿弥陀の光明は、無量光、無辺光、無礙光の徳をもっています。いまこの三つの光明を『浄土和讃』にてらしますと、無量光には「光暁かむらぬものはなし」、無辺光は「光触かむるものはみな」、無礙光には「光沢かむらぬものぞなき」とあります。

阿弥陀の光明を「光暁」・「光触」・「光沢」の言葉をもって特徴づけられましたが、まず光暁の「暁」には、「あきらか、つげる、さとる」という意味があります。有限有量の人間のすがたをあきらかにし、煩悩具足の身であることをつげ、さとらしめるものが無量光であります。「光触」とは御左訓に「ひかりを身にふるるというこころなり」とあります。都合のよしあしに偏執して、有頂天になったり悲観したりして、凡夫が凡夫であることにおちつけない、そのおちつけなくしているもとである悪業煩悩を砕いて下さるものが、無辺光であります。「光沢」には「ひかりにあたるゆえにちえいでくるなり」と、左訓されています。本願の名号を聞くことによって生じてくる智恵とは転悪成徳の智恵でありましょう。

無礙光の利益より 成徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ すなわち菩提のみずとなる(p493)

「かならず」とは人間の側からの発言ではありません。それは仏の側からの言葉ですから、絶対に間違いはありません。煩悩のこおりをかならず菩提のみずとせしめる智恵、それは光にあたることから生じてくるものなのです。「こほりとけ」と、氷と表現された煩悩が解けていく、それは又、糸のもつれが一つ一つ解きほぐされていくようなものでもあり、煩悩でいっぱいの人生が、一つ一つ解きほぐされて聞法のための人生であった、仏道の一生であった、本願力に遇うための生涯であったと、なんの抵抗もなしに、心の底から素直にうなずけている境地なのであります。

先年広島で、生まれたわが子が盲目であったというだけの理由で、「この子が成長しても、さぞつらい思いをするだろう、そんなことならいっそ、何もわからないいまのうちに」と、わが子を窒息死させた若い母がありました。わが子がつらい思いをするのではなくて、実は自分がつらいのです。母の煩悩のために尊いいのちが一つ犠牲にされました。盲目の子をかかえて若い母の人生は、たしかにきびしいものでありましょう。しかし「この子のおかげで」と、「おかげ」に育てられる目が、この母親にはなかったのであります。

なくなられた塩尻公明先生の書物の中に、親鸞聖人の教えに生きぬかれたお母さんを観察して、先生は書いておられます。「母の手紙の中に最もひんぱんにあらわれている考え方は、起こりきった一切の事件を、すべて意味あるものとして肯定しようとすること、及び起りきたらんとする一切の事件と、一切の苦痛、悲哀、不幸とを、凡て真正面から受けとろうとすることの二つである。凡てがよかったという感触と、凡てを受けとろうとする心構えとは、密接に結びついているようである」と。

そのように凡ての出来事は涅槃にむかわせずにはおかないという、本願力のあらわれであったとうなずけるとき、すべてがよかった、すべてを受けとる、という智恵は、私にまでなって下さった如来の、いきいきと働いていて下さるすがたであったと受けとることができるでありましょう。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見