十二、転の智恵

「窮スレバ通ズ」という言葉があります。窮するとは行き詰まる、逆境、貧乏、困難に追い詰められて苦しむという意味ですが、この「窮スレバ通ズ」という言葉の意味として、行き詰まって困りきると、かえって活路が見出されることがある、となっています。しかし、この言葉は誤りであって、ほんとうは、「窮スレバ転ズ、転ズレバ通ズ」というのだときいたことがあります。実際その通りで、転ずるということがなければ、通ずるということはありません。

たとえば路地に迷いこんだ、行き詰まりになっている、これが窮するということです。窮してもどうにもなりません。そこで引きかえす、方向転換をするのです。すると、こんなところに道があったな、ということがわかってくるのです。転じてこそ活路が見出されてくるのです。

「転」とはくわしくいえば「転悪成徳」ということで「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」(p149)とあります。悪とは煩悩、そのどうにもならぬ煩悩を方向転換させてくれて功徳となす、あれはあれでよかった、あのこともあのことでよかったと落ち着かしめてくれるはたらきが、南無阿弥陀仏であると、宗祖はのべておられます。

それにしても金子先生が晩年「一字仏法」の中で「転」ということに施された解釈におどろいています。「一字仏法」とはただ一字をもって、真宗仏教のこころをあらわそうとなさった試みなのです。「愚」「如」「命」「円」「遇」等々という字がとりあげられています。そしてこの「転」という言葉に「コロゲル」という意味づけをしておられます。たしかにその通りなのですが、私は今までそのことに気づかなかったのです。
「コロゲル」とは足場が失われた、自分の立っていた場がなくなった、つまり今の今までそうとしか考えられなかった立場が失われて、待てよ、このようにも見直していけるのであったな、こんな気のつかぬ道もあったなと立ち上がっていくことができた、ということが転の智恵であります。南無とコロゲて、阿弥陀と立ち直ることである、といっておられます。

最近の人間の考え方はあまりにも単純に、直線的になったようです。直線的とはまっすぐに考える、平坦な舗装道路を歩むように考えて人生を生きていく、ところが人生は凸凹道路ですから、水たまりもあれば、石ころもおちている、狭いところもあれば、通れそうもない危険な箇所もあります。そういう所に行き当たるとすぎにまごつくのです。或いは自殺さえしてしまうのです。なぜもっと心の中にゆとりをもつことができないのか。少々の失敗や逆境をおそれることのない人間になれないのか。広い心をもって、待てよと考え直していくことができないのか、と思われるのです。

東井義雄先生がすばらしい言葉をのべておられます。東井先生は何か行事をしようとすると雨が降る、いつか東井先生のことを「雨降り校長」とあだ名するようになったと、いわれます。先生は次の言葉をはり出されました。

雨が降ったからといって
天に向かってぶつぶついうな
雨の日には 雨の日の
生き方がある

世の中にはさけられることと、さけられないことがある。さけられないことに出あったからといって、ぶつぶついってはならないのです。
失敗したからといって、ぶつぶついうな、逆境にあったからといってぶつぶついうな、病気になったからといって、ぶつぶついうな、病人には病人の生き方があるのです。年とったからといってぶつぶついうな、老人には老人の生き方がある、まさに転の境地であります。

身体の柔軟な人は、よし転んでも直ちに立ち上がることができます。それにひきかえ、身体の硬い人は立ち直ることができるどころか、身体の骨を折るかもわかりません。それと同じように心の柔軟な人は巧みに立ち直っていくことができるのですが、心の硬い人、頑固な人、人のいうことに耳を傾けることのできない人、自分の主義主張をまげない人は、その剛直な心のためにかえって行きづまってしまうのです。如来の本願に「触光柔軟の願」があります。光りに触れるもの、みな身心柔軟にならしめたいと誓われたのですが、その誓いがいま南無阿弥陀仏となって、転の智恵となってはたらいて下さるのであります。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見