(10)観測・推理・論理性

 顕彰隠密の四字の義について述べましたが、引用文が多いため読みずらいかもしれませんが、相伝義書のお言葉は一言一句意味深いものですから、そのまま掲載する方が良いのではと思いました。何度も読み直してください。

 情報を受け取る場合のフィルタ(濾過)作用について考えておりますけれど、それでは科学の分野でどうなのか感じたことを述べてみたいと思います。

 読者の皆様方も物理や化学などを学ばれたときに、いろいろな法則を教え込まれた経験がおありだと思います。それらの法則も実感として、あるいはうなづいて受け取られたことは少なく、ああ、そんなものかと、ただ覚えることのみに一生懸命だったことでしょう。

 斎藤進六先生は

「技術的な推進力を阻むものとして、科学の法則性を知ることによってもっと巧みに法則性を使いこなすという方法論が生まれた。だから、その(法則性)の存在に対して人間が何物かを付け加え何物かを減らすことができるというのではなくて、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。」

と言われています。このことを科学が進歩したと一般に言っているのです。

 物理科学的自然に存在する法則性を矛盾なく説明することによって、法則性が顕わになるのです。その法則性を矛盾なく説明するためには、実験と観測を通して行われます。しかし、その観測結果には必ず、誤差、雑音等を含みます。したがって、簡単にその観測結果から法則性を見い出すことはできません。また先生は

 「圧倒的に人間の存在と無関係に存在するような法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解決を克ち得たものである。」

と述べられておられますが、「人間の観測と推理と論理性の限りをつくしてその解決を克ち得たもの」というお言葉の中にその困難さがにじみでているように思えます。表面的な自然現象のうちに秘められた法則性を人類は時間をかけ、「予見や自己を入り込ませずに観る心」を持った人々を通して、みがかれて来たのです。と同時に、一方その法則性を応用した観測技術の発展と理論体系を構成している数学の発達がなければ、現代科学としての成果は得られないと存じます。

 観測 ・・・・・観測技術の発達・分析力
 推理 ・・・・・純粋な観察力・洞察力
 論理性 ・・・数学的背景・表現力

右に示しますように、斎藤先生のお言葉を分離して考えてみますと、観測は仏教でいいますところの分別智、推理は直感的要素を含んでいますので無分別智、論理性は表現と客観性を含むものとして後得分別智に相当すると言えるでしょう。この論理性が、次代の人々への表現となりますから還相廻向として作用するのです。いまここで述べましたことは、原稿を書きながら急に思ったことですから無茶な解釈かもしれません。ただ、これらの三要素がないと科学の発達、法則性の認識の方法の進歩はなかったのです。

 急に話が変わりますが、『願海』誌上でもご指導をいただいている、佐藤純一先生と先日、『願海』同人との座談会を持ちました。その席上、日本はヨーロッパに比べ、まだまだ、創造的な仕事が少ない。それに反して、応用技術の進歩は目をみはるものがある。それはどうしてそうなるのか。幼児教育から大学教育まで、その教育に問題があるのでは、というご意見をいただきました。それらのことも念頭に置きながら、考えていきたいと存じます。

(11)法則の適用範囲

 自然科学の法則は、斎藤先生が言われますように、圧倒的に人間の存在と無関係に存在する法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして克ち得たものであります。しかし、その克ち得た法則を通し、その適用限界を知ることによって、また新たな法則が生まれてくるのです。

 渡辺慧先生(ハワイ大学名誉教授)は著書『時間の歴史』(東京図書)の中で次のようにのべられています。

 「ニュートンの力学が、アインシュタインの力学によって、取って代わられたということをよく申します。取って代わられるといいますと、同格のものが二つあって、その一つが誤っていたために他がこれを廃して登場したように聞こえますが、事実はそうではないのです。ニュートンの力学も正しいし、アインシュタインの力学も正しいのです。ただ前者より後者の方が適用範囲が広いのです。ですから一つの真理が他のより広い真理に包括されたのです。アインシュタインの力学とても最後的なものではありません。

 右は科学的な真理性の『相対性』を示す一例です。相対的というのはその適用範囲に関して相対的なのです。範囲を限れば正しいし、限らなければ誤りであるという意味であります。

 このように、自然科学の法則にはそこに適用範囲、適用限界が存在するのです。圧倒的に存在する法則性そのものが適用限界を持っているのではなく、数式や言葉で表現した法則・理論に限界があるのです。

 実際の科学の歴史は、種々の社会的、個人的環境の影響のために、一つの真理へ到達するのにとんでもない回り道をしてみたり、また逆に思いもかけない抜け道をしたりしています。ですから具体的に理論の進化の跡をたどると、ずいぶん複雑な事情に出会います。しかし、そういう理論の内容にとっては、多かれ少なかれ偶然的な事情を取り去ってみれば、進化の形式にはある類型が見い出されます。

 『自然科学の法則Lにはその通用する経験の範囲Aが付随します。このLをAより広い経験の範囲に適用するとそこに経験と理論とのくい違いXが見い出だされます。このくい違いをなくせるような新しい法則が発見されます。この法則にもやはりその通用経験範囲が付随します。はAを含んでいますこのようなLからへの遷移をつぎつぎに繰り返すのが理論の進化であります。』

これが私の言う進化の形式であります。」

ともいわれています。前記の通用経験範囲は前の経験範囲Aよりもその範囲が広まったのであります。このことはさきにも述べましたように観測技術の発達などによって経験範囲が広がったり、深まったりするのです。このことはつぎのように述べられています。

「ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば、人は限界Aを自覚しないけれども、その限界Aのなかから、しばらくは足を踏み出さないでいるということを意味します。そのことは自明なことではありません。その理由は科学の内容よりさらに広い見地から理解されるでしょう。それはたとえば望遠鏡の倍率とか、顕微鏡の解像力とかいうものが技術の発達に依存し、それがわれわれの経験の範囲を自動的に制限しているというようなことに関連してくるのです。多くの場合、何らかの理由があって経験の範囲というものがしばらく固定されるところに、法則があたかも絶対的に正確なものであるような外貌をもって君臨しうる基礎がありました。」

 これらのことは宗教の領域においてもよく考えてみなければなりません。留まっていれば死んだものと同じであります。

 渡辺慧先生のお言葉によりながら、自然科学のある法則Lに対して、その法則が通用する経験の範囲A(有効適用範囲)が付随する。その通用する経験範囲Aをより広い範囲に拡張すると、そこに経験と理論のくい違いXが見いだされます。このくい違いをなくするような新しい法則(理論)が発見されます。という科学の進化について学びました。

 また、先生は、ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば人は限界Aを自覚しないけれども、その限界Aの中からしばらくは足を踏み出さないでいるとも述べられています。この限界Aに踏みとどまる要因として、観測技術がまだその限界領域を越えていないなどとも考えられますが、人の意識が法則(理論)に執着することが要因であることもしばしばです。

 ここに踏みとどまっていた良い例がありますのでご紹介します。このことは佐藤先生からもお聞きしたことです。

 昭和六十二年は超電(伝)導フィーバーの年とも呼ばれるくらい、高温超伝導物質の発見で科学者間はもちろんのことマスコミも大きく取り上げたものです(科学・技術にも流行があります)。超伝導物質といいますのは種々の特徴を持っていますが、簡単に主な性質を述べますと、字句の通り電気抵抗が非常に小さく、零に近いものをさします。通常、よく電気を通すものとして銅線が電力配線に用いられています。銅は、電気抵抗が小さい物質といいましてもやはり抵抗がありますので、大容量の電力を送電する場合に、その抵抗によって損失が発生し、熱に変わります。この熱の発生が種々の障害を起こすことになります。この発熱を抑えようとしますと非常に太い銅線を使用しなければなりません。ですから、大電流を流す用途にはこの超電導物質が要求されるのです。

 ところが、前の年までは、BCS理論(バーディーン、クーパー、シュリーファーの三名の頭文字)というのがありまして、金属系などでは、この超電導現象が起こる限界は絶対温度で三十度K~四十度K(ケルビン)以下であると、日本国内でも信じられていたのです。

 絶対温度の零度は摂氏でいいますとマイナス二七三度です。この絶対温度で三十度K以下の状態を保持する安定な物質に液体ヘリウムがあります。ですから、旧国鉄が宮崎で実験を行なっています、超電導による磁気浮上列車では、液体ヘリウムを使用しています。極低温であり、しかもこの液体ヘリウムは、ほとんどアメリカで生産されています。これより上の温度では液体窒素がありますが、七十度Kとなります。窒素は空気中などに多量に含まれていますので、どこの国でも多量に生産することが可能となります。しかしBCS理論によって、とても窒素温度では超電導現象は不可能であると考えられていたのです。

 ところが、IBMチューリッヒ研究所のベドノルツ、ミューラー氏らの共同研究で、セラミックス材料を用いた実験で、三十度Kぐらいで超電現象とみられる結果が報告されました。その後、ヒューストン大学のチュー先生からイットリウムを用いたセラミックスで、七十度K~九十度Kで超電導現象が起こったという報告が発表されるやいなや、全世界の研究室で高温超電導物質の開発競争が始まったのです。その後のフィーバーぶりは皆様もよく御存知の通りです。

 現在、落ち着いてまいりましたのは、七十度K以上で超電導現象が何故起こるのか、また、セラミックスで何故起こるのか、その法則性を見つけ出すために、材料とその内部の分子レベル、それ以下での構造解析などが行われているのでしょう。

 特に今回の事件は、偶然と根気の勝負だとよく言われたものです。

 このように、超電導物質の開発競争の発端がまた、外国からであったことに、日本の科学者の創造性が問題となっているのです。このことは宗教の立場からも考えてみなければなりません。

(12)視座の転換

 法則には適用限界があること、その適用限界を忘れたために、新しい超電導物質の発見が、日本でなされなかった一例をお話いたしました。法則に適用限界があるということは、その法則が成立するには何らかの条件が付随するということでしょう。また、その適用範囲が広くなるということは、その付帯条件がゆるめられるということだと思います。

 渡辺先生は

「ある定まった期間の間は少なくとも、法則に矛盾が現われないでいるということは、換言すれば、人はその限界を自覚しないけれども、その限界のなかからしばらく固定されるところに、法則があたかも絶対的に正確なものであるような外貌を持って君臨しうる基礎がありました」

と述べられています。このように、適用範囲があることを忘れ、その法則を絶対的に真だと思い込んでしまうところに問題があるようです。

 ここで、座標変換について述べさせていただきます。わが真宗では廻入とか転入という言葉によって、信心をいただいたときを表現しています。よき人に出会い、お念仏(六字)のいわれを聞くことによって、その人の視点、視座が転ぜられることを「転入」と表現されているのだと思います。また、その転ぜられる働き、作用を廻向という言葉で言いあてられています。

 科学技術の分野では、変数変換や座標変換という手法を用いることによって、その視座、視点を転換しているのです。

 例えば、円の面積などを求める場合、直角座標で表現されているものを極座標表現に変換しますと、簡単に面積を求めることができます。

 直角座標と申しますのは、直角に交わるX軸とY軸とがあり、その交点Oを原点とします。その二次元平面上の任意の点Pの座標(位置)をY軸からの距離xとX軸からの距離yとによって、すなわちP(X,Y)で表わします。一方、極座標表現の場合には、この点Pと原点Oからの距離rと正側のX軸とのなす角θで表現します。すなわちP(rcosθ,rsinθ)となります。少し専門的になりますのでこれ以上数式は使用しませんが、高校時代に習われた記憶がおありだと思います。もちろん、直角座標で表現した点Pと極座標で表現した点Pは、二次元平面上の同じ点を意味しています。

 このように、同じもの(点Pなど)を異なった座標で表現することが可能ですので、与えられた問題によっては、どちらの座標で表現するかによって、問題が複雑になるか、簡単になるかかわって参ります。円の面積ではなく、X軸に平行に置かれた長方形の面積を求める場合などは、逆に直角座標のまま求める方が簡単です。

 仏教においても、成就に立てばとか、法から言えば、機から見ればとか申します。あるいは浄土から、娑婆から見るとも申します。これは、視座の転換を意味しているのでしょう。この場合に、娑婆からの視座とはどういうことなでしょうか。すべてのものを自己を中心とした視座、座標でしか見ないことを言うのでしょう。我々は教えられた問題に対しては、適当な座標変換を行うことができますが、あらゆる問題に対して最適な視座から見るということは不可能です。では、浄土に立つということはどういうことなのでしょうか。

 人の視点、視座が転ぜられることと、工学の分野などで用いられる座標変換との関連について簡単にお話しましたが、もう少し、続けたいと思います。工学上で用います座標変換は、数学的な取り扱いはいたしますが、それはどのように、あるいはどのようなところから対象物を座視するか、その視座・視点を変更するためのものであり、また異なった物理現象を統一的に取り扱うためにも座標変換が用いられるのです。

 我われの生活においても、相手の立場に立って考えなさい、行動しなさいとよく言いますが、これとて同じ意味のものです。

 ここでは、宇宙から地球を見るという体験によって、意識の転換がなされた人の話をご紹介しましょう。

 立花隆さんの『宇宙からの帰還』(中央公論社)で「宇宙人への進化」という章からの引用です。途中ところどころはしょりしますので、興味を持たれた方はご一読下さい。

「窓からはるかなる地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我われの地球が浮かんでいた。それは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあったいくつかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。(中略)いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考え続けるのだが、そのときはちがった。疑問と同時にその答えが瞬間的に浮かんできた。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
 世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもって進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。(中略)
 神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。(中略)
 瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得するとともに歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺すぶられるような思いだった。真理がわかったという喜びに包まれていた。それからしばらくして、今度はたとえようもないほど深く暗い絶望感に襲われた。感動がおさまって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアル(精神的)には一体であるべき人間が、現実にあまりにあさましい存在のあり方をしていることを思い起こさずにはいられなかった。現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動き続けた。(中略)
 自分がこれまで真理だと思っていたことが、より大きな真理の一部でしかないことがわかってくる。この意識の変革、視点の転換がすべてのカギであることを、あらゆる宗教が語っている。」

 何んと素晴らしい体験をされたことでしょう。しかし、広開浄土門の法は、このような個人的な体験による座標変換を願われているのでしょうか。

Pocket

Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見