(4)住宅貧乏物語

 朝日新聞・暮らし百科(人形作家・辻村ジュサブロー氏記)より

「この間、真田屋敷を見学に、信州の松代町に行った時、発見したことがございます。二階建より高い家がなくて、緑に囲まれた町並みは、私には安心感を与えてくれて何とも美しいのです。(中略)
 この日本の風土で培われてきた『感性』は、そう急には変えられない、と思ったのです。と申しますのも、『美しい』と『きれい』とでは、大分意味が異なっていると、私には思えるのです。美しいとは、内面的な情感を刺激した結果生まれるもの、きれいとは、見た目に写ったそのものの形で判断されるようなもの、それが最近、混同されてはいないでしょうか。美しさの裏には、必ず苦しさが存在します。いまが美しい新緑の木々にしても、自然界の風雨に耐えてきた時間があるはずで、それが人の心をうつのです。」

 このように日本の住まいは従来、自然のきびしさを克服すると同時に、自然と調和がとれたものであり、縁側も自然との交渉の場として重要視されていたのでありましょう。それが、現代に至ってはどうでしょうか。他の人・物・音などをオミットするという構造・機能をもった住まい(自分だけの空間)になってきています。個の確立とかいう大義名分を立てながら。この住まいの遮断構造、いや、人間の他を排除しようとする意識が疎外を生み、若年・老年者の自殺の遠因になっているのではないでしょうか。

 もう一度、日本の開放的な、すまい構造を考えなおすときが来ていると思われるのですが。実はこのように述べています、わたしどもの庫裡もアルミサッシによって、外界から遮断された構造になっています。もうすこし、「住まい」について学んでから建て替えれば良かったと今になって悔やんでいます。

 経済大国とも言われ、国民総生産世界第二位の日本ではありますが、先進諸国の中で最も貧しい住宅事情にあるのではないでしょうか。貧しい住宅事情でありながら、マイカーは流行し、海外へ出れば、日本人を見かけないことがないと言われるほど海外に出かけ、狭い住まいの中には、クーラー、冷蔵庫、ステレオ、カラーテレビ、家具など所狭しと物が置かれているのが現状です。したがって、一家団らんの場所がないために外に休息の場所を求めなければなりません。

 早川和男氏は、この現状にいたみを感じられ、住宅環境が人間の人格形成や精神生活、あるいは肉体にどのように影響を与えるかを『住宅貧乏物語』(岩波新書)で述べられています。そのはしがきの一部をここに紹介させていただきます。

「空には超高層ビルがそびえ、地上には新幹線が走って、現代文明の枠を競っている。だが、国民の住生活はあまりに貧しい、家が狭く環境が悪いために遊びを知らない子どもたち、住む場所を探しあぐねている老人、マイホームづくりに疲れはてての一家心中の頻発 ・・・。住まいの貧しさは、現代の日本人と世相に深い影を落としているのではないか。
 いうまでもなく住宅は、人間の安全と健康をまもり、生存と生活を支え、文化をつくっていく基礎である。そこで子供たちが育ち、家庭生活にかかわり、人間の全人格をつくる根本的に大事なものである。それにもかかわらず、これまで住宅は大きな社会問題として政治の争点にならなかった。」

と、我われは、今、厳しく問われています。

(5)住まい、家庭とは

 明治時代では、住まいそのものは、まだ江戸時代の武家屋敷の名残りもあって客間中心主義であったが、第一次大戦後、すなわち、大正の後半から民間中心の住宅が欧米の影響をうけながら発達するとともに、その頃から、個人のプライバシーを尊重するという傾向が見えだし、他の用途から独立した、夫婦の寝室がみられるようになったそうです。そして第二次大戦後は個人々々の独立した部屋の要望が強く、とくに、小住宅であっても受験戦争の影響からか、子供部屋の要求は強く、スペースの面からも、中廊下や縁は当然除かれたようであります。ここで、最近の住宅に対する傾向として、平井聖氏は『日本住宅の歴史』(NHKブックス)のなかでつぎのように批判されていますのでお聞き下さい。

「現在の子供部屋に対する親の考え方は、プライバシーを考えるあまり、子供に対して放任主義におちいっている場合が多い。子供が自室で何をしているのか知らない親が多くなっている。そのような場合には、同じ屋根の下で生活していても疎遠な家族ができよう。
 家族から離脱するのは子供ばかりでない。(中略)夜寝るだけに帰ってくる父親は、家庭で無視される結果となる。転勤になっても、父親は単身赴任ということになる。(略)どうせ、食事時間もバラバラ、家にいても自分の部屋にとじこもって話しもしない家族なら、一人一人通勤通学に最も都合のいい所に個室を持ち、週一度どこかのクラブで家族が顔を合せた方が、今の状態より・・・。」

 住まい、家庭とは何なのでしょうか。

 我々は、日常生活の中で何事でも、機能面のみを取り上げて問題にしています。一般の建築家が住まいについて取り上げる問題は、住宅事情とか居間の役割とか、寝室の意匠とか、台所における厨房器具の配置とか、間取り、構造上の強度などが多く、もう一歩ふみ込んだ議論は余りみかけませんが、最近になってようやく「建物」じゃなく、「住まい」を問題にされて来たように思います。今までも何人かの先生方の御意見を紹介させていただきました。さらに、西山卯三先生の『住まいの思想』(創元新書)から抜書きさせていただきます。

「だんらんは、家庭の親密な交流を通じて、世代から世代へと伝えられる人間の英知や伝統を受け継がせていく機能を持っている。 ・・・だんらんという生活は、実はわが国の住生活、家族生活の歴史を振り返ってみると、あまりあざやかな存在を持っていたとはいえないのではないか。もちろん、働く人びと、たとえば下層の農民、町場の職人・商人など、社会の下働きになっていた人びとの暮しをみると、非常に貧しい生活をしていたがために、かえって家族みんな一緒になって家の中で暮している。 ・・・ゆっくりくつろぐという暇がなかったかもしれないけれど、食事の後など、短くとも心の通いあった『くつろぎ』、『まどい』が、つまりだんらんがあったのである。ところがかえって上流階級では、だんらんというようなものはなかったといってよい。」

 現代では、国民全部がかつての上流階級になっているのではないでしょうか。

(6)住まいづくり

 私達が小さい頃にはどの家庭にも針箱があり、その引出しには古いボタンや新しいゴム紐など色々なものが入っており、ときには飴玉などもあり、祖母などがつくろいものをしているとき、その飴玉をもらって、昔話などをよく聞いたものであります。最近のお母さん方が、針仕事をしている姿などほとんど見かけないのが普通であり、子供が学校で使う雑巾までも買ってくるそうです。ですから、粗大ゴミの収集日など、朝早く回ってみると値打のある品物も沢山あって先日、時価40万円もする古い壷を拾った人があったという話も聞きました。物の値打もわからなくなっているのでしょう。

「モノを幾度でも形をかえて使い、最後に煙か土になるまでていねいに使うことをしなくなったのは、単に自然の物質を浪費し、自然のなかに厖大な廃棄物を押し出し、環境を汚染するのを強めているだけではない。モノをその性質にしたがってさまざまに利用し、自然のモノとともに生きていく生活の知恵を、大量生産・大量消費によって失わさせられたことも、忘れてはならない。『もったいない』とモノを大切にした思考様式は決して貧しさのあらわれではない。むしろ自然を大切にする知恵であり、その心の豊かさをあらわしていたといえるのである。」

と、西山先生(『すまいと思想』)は言われているのです。我々の住まいやその中の調度品は一見、豪華に見えるけれども、「心の貧しい住まい」になっているのではないでしょうか。

 いろいろな角度から<住まい>を考えてまいりましたが「住まいづくり」の問題は「経営参加とは何か」(『願海』誌昭和五十三年七月~五十四年五月号)における千秋薬品さんの「場づくり」の問題と同じであろうかと思います。場づくりの最小単位が「住まいづくり」でありましょう。その住まいづくりから「町づくり」、「国づくり」へと発展し、展開していくものと確信しています。

 以前に、仏教の「身土不二」という言葉を紹介させていただきましたが、それと同じような意味で、次のような言葉もございます。

「荘厳成就は願よりあらわれ、信を生ずる本、願と不二なり
国土の成就、即ち往生成就と不二なり」(『真宗相伝義書』十五巻『論註入科会解』)

 これらの言葉から感じますことは、主体(住んでいる人)と環境(住まい・町)とは、切り離すことのできない関係にあること、環境自身がすでに願われて生まれてきたものであり、そこに住む主体も願わずにはおれない存在であるということです。暖かい、血のかよったご家庭やお店を訪問しますと、こちらがつつまれますと同時に、自分の家庭もこのような家庭にと願わずにはおれません。

 受験勉強をしている子供の勉強机に、心のこもった生花をそっと置いておくお母さん。ご主人が会社から帰宅されたときに「お帰りなさい。お疲れさま。」といえる奥さん。「何事もおかげさまやで」とお孫さんに伝えられるおばあさん。そんな人たちでいきいきとしている<住まい・家庭>を、すべての人々が願っていることを思うのであります。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見