八、みてらん火

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり
(浄土和讃 p481)

「みてらん火」とはどんな火のことなのか、実は早くから気になっていました。柏原祐義著『三帖和讃講義』によりますと「みてらん火」の「みてらん」には「満ちてあらんという意」であるとされ、たとい三千世界が火になってあるとしても、私共はその火の中をこぎわけてなりとも、これを聞かねばならぬという大決心をもってかからねばならぬ。つまりどんな苦労災難に遇っても、それをいとわず命がけで聞くという大きな決心が肝要である、とあります。これが本来の意味でありましょう。

しかし、私は「火」とは何かということを考えてみたのです。「火宅無常の世界」という言葉があります。「火の河、水の河」「火焔常に道を焼く」。そして、煩悩には火がついていますし、煩悩熾盛として、火のさかんに燃えるというあらわし方がしてあります。さかんなる煩悩に対して、如来の智恵のはたらきを光炎王仏として、光明熾盛とあらわしておられます。

「火」を煩悩とおさえたとき、「みてらん火をもすぎゆきて」というのは、どういうことになるのでしょうか。煩悩の世界を通り過ぎてでもきかねばならないということになってきます。何か煩悩と自分とが別であるような感じがするのですが、実は私とは煩悩そのものであったのです。聞法を重ねることによって「みてらん火」とは私そのものであり、聞法を通すことによって、益々、煩悩の深さが信知せしめられてくるすがたが「みてらん火をもすぎゆきて」ということではなかったか、と気づいてきたのです。

一つ一つの煩悩を通していよいよ「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り腹立ち、そねみねたむ心多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずきえずたえず」ということが自覚されてくるのであります。それこそが又、私を不退の位に住せしめるのであります。

金子先生が九十歳を越えて、もう少しすっきりするものがあるのではないか、と思っていたのに、何か若い時より愚痴っぽくなってしまい、だんだん始末のいかない自分の心を感ずる、と述べられ、清沢先生の「信心をいただけば、人間の心はだんだんよくなるのだというけれど、そうではない、だんだん悪くなっていくのではないか」という言葉を引いて、自分の心を告白しておられます。実際、長く生きれば生きる程、人間の根性というものは悪くなるんじゃないかなあとも、述べられています。

「みてらん火」などと思われないものですのに「みてらん火」と自覚信知せしめられるのは、まさしく光明に照らされているからであります。「大海の水の深さは知れても、人の心の深さは知れない」と、教典にありますが、光りに遇ったすがたが「みてらん火」であり、その深さがみえていくことが、つまり「すぎゆきて」ということではないでしょうか。

聞法は歩みであります。自己が深まっていく歩みなのであります。深まるとはただ煩悩熾盛の信知だけではなく、光明に摂取されていくすがたでもあります。触光柔軟といわれます。煩悩が触光のところに、そのままでおわらない柔軟のはたらきをあらわしてくるのです。

怒り腹立つ煩悩が光りにつつまれて、おはずかしいことであったと、頭の下がるところに怒りが純化されてくるのです。蓮如上人はよく腹を立てられましたが、仏法の怒りでありました。宗祖聖人にもそれがみられます。欲の心は私の人生の方向まで狂わせてしまいますが、光りに遇ったときには、仏にならんとする願いにかわってしまいます。それは光明、すなわち智恵が転悪成徳のはたらきをするからです。それはごく自然に、たくまずにそれをなしとげていくのです。

何故こんな目にあわねばならないのか、どうしてこんなことになったのか、あの時あんなことがなかったらというとめどもない愚痴が、実は如来の光明に摂取されて、あれはあれでよかった、あれを通らなければこのことに目覚めることができなかったと、愚痴の材料が如来のよびかけと、納得してうけとれていくのでありました。このような意味を「みてらん火」という言葉の中から、うけとらせてもらったことでありました。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見