九、人間の唄

竹部勝之進さんの詩に「人間の唄」というのがあります。人間とは如来に願われた存在であります。願われた存在である人間が、願いに生きる存在になってこそ、本願が成就したことになるのです。はからずも「人間の唄」はこの願いに生きるすがたをうたったものでありましょう。

人間ノ唄
人間ニナリマショウ
自信ヲモッタ人間ニナリマショウ
何モノヲモオソレナイ人間ニナリマショウ
三歳ノ童子ニモ学ブベキコトヲ学ベル
人間ニナリマショウ

そんな人間として成就するのか、自信をもった人間、何ものをもおそれない人間、三歳の童子にも学ぶべきことを学べる人間になっていくのであります。

推うに、人間の自信ほどあてにならぬものはありません。それは自分の経験、苦労、人生観からつちかわれたものであって所詮は、自分の主観で固めた確信であります。この時はこうして、こういう時はああしてと、計算どおりにいっているときはそれでよいのですが、人生は計算どおりには運びません。そのときははかなくも、固めた自信が崩れ去ることでありましょう。

ほんとうの自信とはどんなことでしょうか。それは如来の力がわが力となって下さったことであります。
如来の力、つまり本願力がわがものとなる。「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」(p834)とあります。獲得する。わがものとなるということです。如来の力がわが力となったときそれがほんとうの自信となってくるのです。

清沢満之師の言葉に、

我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉づ

と、あります。世に処する道が開けるとは「虚心平気」に生きることであり、楽に生きる、きばらずに、ゆうゆうと生きていけるということであります。よい格好をするのでなく、背伸びするのでなく虚勢をはるのでなく、おおらかなゆったりした心で生きていけるのであります。

禅者の言葉に「水急不流月」水急なれど月を流さず、というのがあります。大雨になって洪水となり、すべてのものをみな流してしまう。家も、橋も木も人も。その中にあって濁流の中に移った月影は流れないということであります。

教養も学問も常識も修養も、地位もたしなみも、人生に於ける問題のときは、たくみに対処していけます。しかし、自分の人生そのものが問題となったときには韋提希夫人と同じように、濁流でおしながされてしまいますが、獲得された如来の自信は、流されることはない、ということを教えてくだます。

如来の自信で生きる人は、何ものをもおそれることはないのです。つまり「虚心平気」に生きられる。虚心平気とは「虚心坦懐」と同じ意で、何のわだかまりもなく、さっぱりして広く平らかな心と、辞書にあります。先入観をまじえずに素直に事実をうけとっていける心でありましょう。

我が身におこる出来ごとはさけることもできず、にげることもできません。おこるときは因縁和合しておこるのだと、うけとっていく。日が悪いのだとか、何かの祟りだとか、そのような雑物を入れないでうけとっていける心こそ、如来の自信のはたらいている相でありましょう。一たびうけとれば、あわてず、あせらず、くさらず、じっくりとうけとっていくのです。国道で車が渋滞することがよくあります。車の中でどれだけイライラしても、何ともなりません。流れにまかせるしかありません。どれ程、ノロノロしていてもいつかは解消します。車の流れにまかせて窓の外をながめておれば、

よく見ればナズナ花咲く垣根かな

気もつかなかった気色にも気がつくし、思いもつかなかった世界のあることにも気づかしめられてきます。
問題に出あう度毎に何故こんなことになったのか、何故自分だけがこんな目にあうのか、あの家では、あの人があんなにうまくいっているのにと愚痴る心が「わたしにはこれがよかったのだ」と、ひらかれてくるのであります。

岩もあり 樹の根もあれど
さらさらと たださらさらと
水の流るる

私の好きな歌の一つです。

Pocket

Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見