(10)聖俗革命

 近代科学の誕生といわれる十七世紀の科学者たちのなかから、デカルトを中心にその思想を学んでまいりましたが、十七世紀の代表的科学者であるコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、デカルト、ニュートン、パスカルなどはキリスト教会に属していたり、敬虔なキリスト教信者であったのです。したがって、それぞれの科学者にとって、ニュアンスの違いはあれ、キリスト教思想が彼らの土台となっていたはずです。

 村上陽一郎氏は『新しい科学論』(講談社ブルーバックス)の中で

「十七世紀の人びとにとって、科学とは、この自然界の創造主たる神が、この自然のなかに自らどのような計画を描きこんだのか、という点を、自然を研究することによって人間が知り、それを通じて神の御業を讃える、という営みとして考えられていました。十八世紀の人びとにとっては、科学は、自然のなかに現われている秩序の追究という営みを指すことになって、造物主であり、創造主であり、かつ計画の立案者である神のことは棚上げにされ、故意に忘れ去られました。わたくしはこの過程を『聖俗革命』と呼んでいます。
 十七世紀の人びとにとっての『科学』のもつ意味あいと、十八世紀の、とりわけ啓蒙主義者たちにとっての『科学』の意味合いとの間には非常に重要な差があります。そしていうまでもなく、今日のわたしどもは、十八世紀啓蒙主義者たちと同じように『科学』を考えているのです。」

と言われています。この「聖俗革命」と呼ばれる変化がどのようにして起こってきたのかを考えてみたいと思っております。

 昭和五十六年の年末に日経新聞社より『生命産業時代』という書物が出版されました。内容はバイオテクノロジー(生命工学)の現状についての報告であり、その企業化・産業化に関する世界的な動向についてであります。一つの例をお話しますと、バイオテクノロジーの一つの基本である「細胞融合」によって、トマトとポテトの細胞を融合させ、全く新しいポマトという新種の植物を作りあげたようです。根はポテト、茎はトマトというものです。このように恐るべきスピードで生命工学は発達しています。読者の皆様方も遅かれ早かれ、生命工学や遺伝子工学に関する情報を耳にされると思います。衝撃を受けられるかも知れません。しかし、どんな文明化社会になろうとも我われに必要なのは、宿業(ひきうけなければならない)と宿願(願わずにはおれない)という原点・立ち場に立ちもどることではないでしょうか。村上陽一郎氏も『新しい科学論』の中で

「現代の科学は、その長所も欠点も、わたくしども自信のもっている価値観やものの考え方の関数として存在していることを自覚することから、わたくしどもは出発すべきではないでしょうか。今日の自然科学は今日の私ども人間の様態を映し出す鏡なのです。結核や肺炎を駆逐し、原爆を作り出した科学について、その全ての責任を今私どもが引き受けることを通じて、人間の道具としての科学ではなく、科学を自らの身の内に引き受けるという認識を通じてのみ、私どもは、自己を変革すると同時に科学を新しい方向に変革することができましょう。」

とおっしゃっています。

(11)静的と動的創造論

 十七世紀から十八世紀への思想的転換期についてお話ししましたが、村上陽一郎氏の言葉によりながら、啓蒙主義時代に突入するまでの思想的背景について、もう少し考えてみたいと思います。

「『静的創造論』(デカルト)の立場に立てば、『動的創造論』(ニュートンやパスカルなど)は神が最初に行なった創造の手直しをしなければならないことを主張しているように読み取れますし、神の全智全能に対する重大な冒涜のように見えるわけです。神はすべてのことを知りすべてのことを見とおすことができる存在なのだから、最初の創造のときに、あらゆる事態に対する配慮もなされており、それ以降、いっさいの手直し的な介入など必要がないということになります。他方、『動的創造論』の立場に立てば、『静的創造論』は、神の働きを、最初の創造のただ一点だけに限局してしまい、神の遍在ということに対する著しい冒涜になりかねません。実際、ニュートンやパスカルらは、『デカルトはできることなら神なしですませたかったに違いない』として激しくデカルトを攻撃するのです。そのニュートンは、ライプニッツから、おまえの言い分を聞いていると、まるで神は最初の創造のときに計画違いをし、そのためくり返し創造をやり直さなければならないと言っているようだと非難されるわけです。」

 このように、十七世紀の科学者においてキリスト教的宇宙観が、静的と動的創造論に大別され、その静的創造論が十八世紀の啓蒙主義者へ受けつがれ、理神論、無神論へと向かうのです。

 十八世紀における「科学的知性の確立」と「進歩の観念」について、伊藤勝彦氏(『思想史』(新曜社))によりながら学んでゆきたいと思います。

「十八世紀における科学的知性の勝利の確信は、まったく新しい型のヒューマニズムを出現させた。この新しいヒューマニズムは、科学的合理性を、自然のみならず、政治、経済、宗教、芸術、その他、文化のあらゆる領域にわたって徹底させ、それによって人間完成の理想を実現しようとしている。
 この科学とヒューマニズムの統一の理念の追求は、単なる理想の問題としてでなく、現実の社会生活の面にも徹底的に追求された、ということにほかならない。そして、この統一の課題意識が十八世紀啓蒙の申し子ともいうべき『進歩の観念』を生み出すにいたったのである。それは、たんに人間精神の無限な完成の可能性を主張するだけでなく、人類は新しい科学や技術の力によって自然の富を開発し、社会の経済的繁栄をもたらし、やがては人類全体の幸福を実現してゆくにちがいないという信念をも含んだものであったのである。とりわけ、十九世紀における科学・技術の驚異的進歩は、ありとあらゆるものが科学的知性の前に奴隷のように服従し、人類は新しい技術の力で無限に完全な幸福を実現してゆくだろうという、とほうもない幻想をいだかせるにいたった。」

 このように、十八・十九世紀は科学至上主義、科学がキリスト教にかわる広義の宗教として、突進してゆくことになったのであります。

 十八世紀における「進歩の観念」の確立を通して、科学至上主義の思想へと展開してゆく過程を伊藤勝彦氏のお言葉によりながら、お話しましたが、続けて、伊藤氏に聞いてゆきたいと思います。

「科学・技術のすさまじい発達は、人間と自然のあいだのコスミック(宇宙的)な統一を根本的に破壊せずにはおかない。世界の技術化、機械化が進行してゆくにつれて、人間生活は自然との生命的共感を失って、単調な機械的反復運動へと追いやられる。自然もまた神秘的性質を失い、冷く非人間化された現実のみが拡がってゆく。かつては共同体的人間関係において生命的交流を実現していた人間が個性をはぎとられ、機械的組織の一歯車へと成りさがってしまう。いまや人間は、この機械的世界に主人公として君臨するどころか、人格性をはく奪され、たんなる物材として取り扱われる。まさに近代的ヒューマニズムは危機に直面しているといわねばならない。だが、今日の我々にとっても、科学とヒューマニズムの統一という課題は消失したわけではなく、原子力時代、宇宙時代、あるいは情報化時代などといろいろな名称で呼ばれる、今日の科学的世紀においてすら、多くの思想家がこの問題をめぐって格闘している。この意味では、現代のわれわれは依然として近代思想の投げかけた問題圏の中に生きているのである。」

 このように、人間と自然との宇宙的統一、生命的世界が科学の分野を始め、あらゆるところで願われ、現代に答えうる思想が求められています。

(12)現代なき宗教・宗教なき現代

 昭和五十七年の春、御堂会館小ホールで、第三回『願海』大阪読者集会が開かれました。テーマは「我われは何を考えるべきか」であり、南山大学の国分敬治先生とブラフト神父さまに講演していただきました。国分先生には「現代なき宗教・宗教なき現代」という講題、ブラフト神父さまには「宗教と科学」という講題でお願いいたしました。

 両先生のお話から、技術者として感じさせていただいたことを、ここでお話ししたいと思います。

 現代の科学者のなかでも、多くは十八・十九世紀の科学者と同様、「科学はどこまでも真理の探求であって、利害にかかわらない。だからそれ自体は尊いことなのであって、応用される場面では兵器になったりすることもあるが、平和的にも役立てることができる。つまり、科学それ自体は両刃の剣なのであって、善くも悪くも使える。科学者としては人類に役立つように使うことを提唱し、悪用されることに反対すべきである。それが科学者の社会的責任のとり方である。」と考えられている。

 一方、科学に興味を持たれていない人びとは「科学は理知的なものであり、取るにたらないものであるとし、科学を否定し、科学に対して無関心になったり、反対する態度」をとりがちであります。

 これらの態度からは何も生まれません。科学に対する無関心さの増大は科学を無力にさせるのではなくて、科学のあり方に対するコントロールを無力にさせるのです。しかし、何としても我われ科学者自身が科学研究の現状を認識し、自覚する―いたみをもつ―ことが今後の科学を実りあるものにする最低限の必要条件であると、両講師のお話から、改めて感じました。

 われわれが自然科学にたいして、危惧の念を抱く場合、それは科学が進歩するにつれ、驚異的に発達してゆく技術の分野に対してでありましょう。科学は人間が本能的に有している探求心といいますか、根本的な問いが原動力となり、宇宙の神秘に挑戦していくものでしょう。一方、技術は科学によって明らかになったことを、人間の生活に関わる事柄に応用してゆく、すなわち、生活に役立つものを創り出してゆくものです。

 確かに、科学・技術の発達により、今まで、治らなかった病気が治るようになったり、身の回りが便利になってきました。

 これらはすべて、苦を逃れ楽を求めようとする動きだったはずです。にもかかわらず、人間の思いをこえて驚異的に発達してきた科学・技術は自然にも人間にも新たな苦を生じているのではないでしょうか。

 親鸞聖人の『教行信証』(「真仏土巻」)に

「楽を断ぜざる者は、すなわち苦となす。もし苦あれば大楽と名づけず。楽を断ずるをもっての故に、すなわち苦あることなし。」

と説かれています。楽を求める心を断じない限り苦を脱することはできないと説かれているのでしょう。

 この親鸞聖人の言葉に照らすとき、私たち技術者は、苦を抜き楽を求める<外道の道>を邁進していることになります。しかも、とどまることがありません。これでよいのでしょうか。(村上氏の言葉を再読して下さい)

 人間と自然との統一による生命的世界の実現が、科学・技術の分野を始め、あらゆるところで願われています。

 しかし、たとえ科学・技術に対してまじめに取りくんでいる技術者であっても、人間の欲求に答える、すなわち表面的・物質的な、よりよい生活にのみ答えようとするならば、それは苦を抜き楽を求める<外道の道>を邁進していることになります。

 一方、一市民として、一日本人として考えてみるとき、私達が日常の生活をしていますときに贅沢はしなくとも、どれだけの物資・エネルギーを消費し、自然を破壊し、公害をまきちらしていることでしょう。一粒のいちごにさえ、限りある資源の石油を消費しています。きたない話をして申しわけありませんが、トイレットペーパーを使用するたびに、他のアジアの国ぐにの森林を伐採しています。現代こそ、私達、日本人一人ひとりが、自然を破壊し公害を生んでいるのだという「いたみ」を持つべきではないでしょうか。

 『教行信証』(「真仏土巻」)に

「一切衆生は、常に無量の煩悩のためにおおわれて、慧眼なきがゆえに、(道と菩提および涅槃とを)見ることを得ることあたわず。」

と説かれています。生命的世界を願っているんですけれども、足下を見れば煩悩が盛んであるがゆえに生命的世界を見ることができません。

 でも、非生命的世界であればあるほど、願わずにはおれないということだけは確かです。

 釈尊は人生は苦なりと申されました。我われは毎日の生活に四苦八苦しておりますから、常に、この苦から何とかのがれようとします。これは人間の本能的な祈りかも知れませんが、仏教ではこの作用を「煩悩の所為」と申します。

 現代人はいろいろな苦からのがれんがために、神に、仏に祈り、これを宗教的信仰として受けとめています。しかし、この祈りこそ煩悩のなせるところであると仏教ではいわれているのです。私も技術者であり、小寺院の住職でありますが、しばしば、これらの祈りをささげます。

 さきに述べましたように科学・技術も、人間の欲求に答える、すなわち表面的・物質的な、よりよい生活のみに答えようとするならば、それは苦を抜き楽を求める<外道の道>を歩むことになるのです。

 しかし、一方、『大無量寿経』にとかれています四十八願は一つ一つすべて抜苦与楽の願であり、衆生のための大悲の願であるといわれています。

 同じく抜苦与楽の願いであるにもかかわらず、どうして違うのでしょうか。

 我われが祈る抜苦与楽の立場は表面的・物質的・個人的・差別的・刹那的・衝動的なところからの発想を土台にしているのではないでしょうか。そしてまた、我われは、真に願うところの目標が定かでないのではないでしょうか。

 曽我先生のお言葉で結びたいと思います。

「我われ衆生の真実の要求は、この本願荘厳の清浄の世界に生まるることにある。」

(13)人類の危機

 人間の誕生以来、人類は宗教を求め、哲学、芸術や科学など、いろいろなものを生んでまいりましたが、もともと、これらの起源は、人間の根元的な問い、「人間とは何ぞや」、「人間は何を目標として生存しているのか」、「どう生くべきか」から出発したものであります。しかしながら、十八世紀以後、進歩の観念が台頭することにより、宗教と科学は完全に分化し、それぞれの道を歩むこととなり、現代まで参りました。

 現代にいたって科学・技術の分野では、生命科学や遺伝子工学の発達により遺伝子操作の研究がなされており、また、マイクロエレクトロニクスの進歩とともに、人工知能・ロボットの研究などがおこなわれています。このように、人間の生命や知能に直接かかわる問題にまで科学・技術の研究対象が発展して参りますと、あらゆるところで問題意識、危機意識が生まれ、科学の領域でも、ふたたび根源的な問いを持つことになります。外道の道を邁進してきたところからいたみを持ち、根源的な問いに帰りつつあるのでしょう。

 しかし、残念ながら、真に問題意識をもたれている科学者・技術者はまだ少数であり、私自身も含め、大多数の者は、十八世紀の進歩の観念から目覚めていないのではないでしょうか。とくに、日本の科学者・技術者にみられる顕著な傾向ではないかと思います。このことが大きな問題です。

 今日、マイコン時代といわれるほど、マイクロコンピュータが発達し、また、その周辺素子や周辺装置の進歩も、目覚ましいものがあります。家庭電器製品の中にもマイコンは導入され、色々な機能アップがはかられています。新聞などの広告でも、それらの特徴が宣伝文句になっています。

 また、マイコンを利用したパーソナルコンピュータ(個人用)およびオフィスコンピュータ(事務処理用)、ワードプロセッサ(日本語文章作成用)などが市場にあふれ、テレビなどでも広告されていますので、小学生なども興味を持つようになっています。

 読者の皆様方の中でも、マイコンを実際に使われている方もあるかも知れませんが、多くの方々は、コンピュータという言葉を聞かれるだけで、拒否反応を示されるかも知れません。しかし、各家庭に一台はパソコンがあるという時代が、もう目前にせまっています。

 このように、マイクロコンピュータを含めた、マイクロエレクトロニクスの急速な発展により、人間の知的活動分野にも、いろいろな装置が進出してまいります。そこで問題になってまいりますのが、表面的に急速には現われない、精神的・内面的公害でありましょう。とくに、肉体的にも精神的にも大いに発達する時期である小学生や中学生が、マイコンとの対話だけに没頭するということは非常に危険であるように思います。しかも、マイコンゲームなどに夢中になる可能性が十分あります。マイコンは文句も言いませんし、忠実な家来となるからです。このマイコン時代に真の主体性をどこで得るか、それが問題です。

 人類にとって、常に問題となるのは科学や宗教そのものではなく、それに関わる人間や組織の姿勢が問われるのです。たとえば、宗教であっても、組織が形成されるようになりますと、個人の自由や意志を無視するような教権主義や強権主義的側面が、台頭してまいります。

 これらの問題を克服するためには、あらゆる存在を否定せずに、あらゆるものから聞き学んでゆく姿勢、報謝の心を忘れないことかと思います。十八・十九世紀、科学と宗教の闘争以来、科学は根源的な心、宗教心を失ってしまったのです。

 科学・技術をつつみ、科学・技術分野の人々に答える教学を、現代という時代は要求しています。『願海』誌は、あらゆるものから学びつつ多くの問題に答えうる教学を、という願いに立たれて発刊されたとお聞きしています。素晴らしいことだと思います。この願いも、読者の皆様方のご支援がなければ、成り立たないことだと思います。悲願の構造の欄を担当させていただいてから、もうすでに六年目に入っています。まずはじめに、<記号にみる悲願>、それから<味にみる悲願>、<住いにみる悲願>、そして最後に、<科学・技術にみる悲願>と題しまして、仏教から学んだことを通して述べさせていただきました。

 この六年間にも、科学・技術は日進月歩いたしております。電気工学を専門にする小生さえ、うかっとしていますと、技術の発達に取り残されそうになるほどです。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見