第五部 宗教と科学の出会い

(1)科学する心

 「科学と宗教」ということが、世の中で問題になってまいりましたのも、ここ十数年のことであり、丁度『願海』が発刊されだした頃であります。したがって、『願海』が他文化との出会いを問題にしましたのも、時代の要求があったからだと思います。しかし、この出会いは容易なものではありません。出会いを疎外するものは「宗教と科学」そのものではなく、それに関わる科学者および宗教者であります。

 斎藤進六先生は『科学する心』という論文のなかで

「『何々主義』は常に争う。善人は争うという言葉があるが、それは善人は偏狭なエゴであることを言外に述べたに過ぎない。『何々主義』もモデルに過ぎず、条件が変わればまた、モデルを変えるべき柔軟性を持ってもらいたいと思う。異なった政治体制のスリ合わせは、人類の生存のみならず、願生此娑婆国土し来らん悲願に応えて行かねばならない」

と仰っていますが、大切なのは聞く姿勢であります。主義主張をいいはってはなにも生まれません。人は自分自身が学んできたこと、経験したことに固執するために、他の分野の人びとと対話することが出来ないのであります。学習する、経験するということが即、執着につながりますから、余程注意しなければなりません。親鸞聖人が二十願(執着心・『大無量壽経』四十八願中の二十番目の願)を大きく取り上げられたこともうなづけます。

 ノーベル賞物理学者のファインマン先生は『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(岩波書店)のなかに、卒業生に送られた言葉として次のようなことがかかれています。

「実は私が『カーゴ・カルト・サイエンス(積み荷信仰式科学)』と呼びたいと思っているえせ科学で必ずぬけているものが一つあります。それは諸君が学校で科学を学んでいるうちに、きっと体得してくれただろうとわれわれが皆望んでいる『あるもの』なのです。その『もの』とはいったいなにかと言えば、それは一種の科学的良心(または潔癖さ)、すなわち徹底的な正直さともいうべき科学的な考え方の根本原理、いうなればなにものをもいとわず『誠意を尽くす』姿勢です。たとえばもし諸君が実験をする場合、その実験の結果を無効にしてしまうかもしれないことまでも、一つのこらず報告すべきなのです。
 また、科学者として行動しているときは、あくまでも誠実に、なにものをもいとわず誠意を尽くして、諸君の説に誤りがあるかもしれないことを示すべきだということです。これこそ科学者同士の間ではもちろんのこと、普通の人たちに対するわれわれ科学者の責任であると私は考えます。ですから、私が今日卒業生諸君へのはなむけとしたいことはただ一つ、いま述べたような科学的良心を維持することができるようにということです。」

 ファイマン先生のこれらのお言葉の中の科学という文字を宗教に変えれば、宗教者にも十分通ずる内容のものです。科学と宗教が出会えるためにもお互いに誠実でなければなりません。

 科学と宗教が出会うための科学者および宗教者の態度について、斎藤先生とファインマン先生のお言葉によりながら述べてみました。その場合、「科学的良心」や「予見や自己を入り込ませず観る(聞く)心」が大切であるということを学びました。

 ここでは、その「予見や自己を入り込ませずにみる(聞く)心」とか「科学的良心」とかが、どこから生じてくるかを、斎藤先生によりながら尋ねてみたいと思います。

 なぜ、先生のお言葉を引用させていただくかと申しますと、先生と同じ分野の工学(科学・技術)を学ぶものにとって、斎藤先生という地上の先覚者(仏)の言葉は、非常に大きな感動と支え(力)をあたえて下さるからであります。

 さて、先生のお書きになった『科学する心』の中に

「『科学する心』は、この『願』(修証義の願生此娑婆国土)に支えられていると信じたからである。この『願』は、科学を決して、それ以上にも以下にも捉えない心、それを『科学する心』と規定する。」

と「科学する心」は「願」であると規定されて、まず我われが人間として、この地上に肉身をまとうて生まれてきたのは、その根底に「願」があるというのが先生のお考えの基礎になっています。

 それは、禅宗の『修証義』の「我われが、此の娑婆国土に生まれ、お釈迦さまにお会いできたのは、願生してきたからである(願生此娑婆国土、見釈迦牟尼仏)」という言葉から、先生の「科学する心は、この、『願』に支えられている」というお考えの基礎が生まれました。そして、この「願」から生まれたままの心を「平常心」であると述べられています。さらに、その「願(純粋意志)」について『技術の源泉を問う』という先生の論文(本書に掲載させていただきました)の中で

「この阿頼耶識は、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かもしれない。この意識は、実は根本的に生物の前から存在し、物理学的自然の成長に立ち会った意識かもしれない。」

と述べられています。曽我量深先生は、この阿頼耶識を人間の最も深いところの深層意識とし、それを『大無量寿経』の法蔵菩薩とされました。そして、この法蔵菩薩は無始の過去から無終の未来までを荷負い、また、この法蔵を我が心とするとき、無辺の山河大地をはじめ一切の万物とも感応道交することが出来ると説かれています。

 このように、曽我量深先生の教えをとおして斎藤先生の阿頼耶識のお考えをみるとき、「阿頼耶識は自然の成立に立ち会った意識かも知れない」とおっしゃっていることも「なるほど」とうなずくことができるように思います。

 そして、この意識の性質は能動性であり、我われの内にあって、能動的に働きかけてくるものと、斎藤先生は受け取っておられます。この阿頼耶識こそ、先生が今、世界的視野に立ってお考えになっている、熱力学のエントロピーの法則に対するネゲントロピーの法則、すなわち、熱量が拡散していく働きのうちにあって、反対に生成していく働き(ネゲントロピー)の法則の意識・願こそ「科学する心」であり、それはファイマン先生の「良心」であり、曽我量深先生の「法蔵精神」であることを知らされ、おどろきを感じます。

(2)人間の執着心

 「科学する心」は「願」であり、この「願」から生まれたままの平常心―予見や自己を入り込ませずにみる心―が「科学する心」であり、この「願」こそ阿頼耶識、物理科学的自然の成立に立ち会った意識であり、それはファイマン先生の「良心」であり、曽我量深先生の「法蔵精神」であることを学びました。しかし、我々にとっては「予見や自己を入り込ませずに観る心」でありたいと心がけても、予見や自己が入り込んでしまうことを考えてみたいと思います。

 たとえば、私が実験をする場合でも、ほぼ理論的背景がありますから、その実験の結果をあらかじめ仮定して行っています。というのは、この仮定(方向性)を持っていませんと試行錯誤になってしまうからです。

 ですから、物理学の分野などにおいても、それまでの理論を通して、仮説を設け、その仮説によって新たな理論的展開を行い、実験的検証を通して、その仮説を証明していく方法がとられています。しかし、仮定と実験結果が一致しない場合に、その仮定に固執してしまうのです。

 その一つの例として、ある会議で光ファイバーやSIT(高速スイッチング用のトランジスタ)を発明された東北大学の西沢潤一先生が話されていたんですが、ある学生が実験結果を本多先生(先生のお名前は確かではありません)にみせに行ったときに理論的に合わない結果でしたので、ほかの先生方はその学生の実験がおかしいと無視されたそうです。しかし、本多先生はもう一度学生に実験するように指示され、学生は再度実験をやり直しました。その結果も前と同じでしたので、先生が検討された結果、仮定しておった理論に誤りがあったということを発見されたそうです。余談ですが、この講演のとき、西沢先生は東北大学の伝統が今日の私を生んだともおっしゃていましたことをつけ加えておきます。

 このように、その理論が有名であればあるほど、それを打ち破ることは大変なようです。

ですから、斎藤先生がおっしゃる「予見や自己を入り込ませずにみる心」の予見とは、このような理論や仮定に執着することだと思います。

 我われ技術屋としましても、ある製品を開発した場合に、コストや製品の機能、安全性について十分考慮し、信念をもって世に出すのですが、その信念に執着するために問題を残すことになります。

 誠実にものごとに取りくんでいても、やはり、我われは不完全であり、色めがねで対象物を観察しているという反省が、常に必要だと感じます。では、どうしたら透明な目で、心で観察することができるのかを考えてみたいと思います。

 まだ、科学の分野において物理学的自然(エントロピー的自然)を対象としている場合は、何度も実験をくり返すうちに、自然の側から、お前の考えは間違っているぞと、観測を通して訴えてくることがありますので解決できることもよくあります。

 しかし、人間の社会生活においては再実験等は不可能ですので、よほど注意しなければなりません。もう少し、自己が入り込んでしまう例について述べてみましょう。例えば、昭和六十一年十二月の痛ましい余部鉄橋の事故でも、何年もの間に、何度も危険信号のランプが点灯し、その都度停止信号を出さなかったり、出しても間に合わなかったことがあっても事故がなかったことになれ、そのことを反省しなかったと考えられます。

 このように、慣れるとは、過去の体験に執着して、その環境を純粋に「観る心」がないことになります。

 斎藤先生は、『技術の源泉を問う』の中で、生物的自然(ネゲントロピー的自然)とは、物理学的自然に対して

「自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を超えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にある。」

と、述べられていますが、とくに人間の場合には、物を創造し、自己を高めてゆき、環境に適応してゆく能力を有しているのですが、その能力と表裏一体のものとして、我執や、法執(理とか体験に執着する)がついてまわりますので、この自覚を常にもっていませんと「予見や自己を入り込ませずに観る心」すなわち「科学する心」を保つことは容易なことではありません。

 「科学する心」は「予見や自己を入り込ませずに観る心」であると斎藤先生から学びました。しかし、生物が有している素晴らしい能力、すなわち学習しながら外界に適応してゆく能力、その能力の裏面として、経験したことに執着したり、予見したりする心が働いてしまうものだということを先に述べました。それではどうしたら、その予見する心や執着心を克服することができるかを考えてみたいと思います。この執着心は本能としての適応能力の裏面ですから、自己の力で克服することは非常に困難であります。ここで、ファインマン先生の体験談を『ご冗談でしょうファインマンさん』の中から紹介しましょう。

「ロンチェスタ会議ではリーが、パリティ保存則の破れについての論文を発表することになっていた。リーとヤンは、パリティ保存則は破れたものと結論を下し、これに関する論説を発表したわけだ。会議の間、僕はシラキューズにいる妹のところに泊まっていたので、その夜リーらの論文を持って帰り、『この中でリーとヤンの言っていることはどうもよくわからん』とぼやいた。ところが妹は『兄さんが言っているのは、それが理解できないっていう意味じゃなくて、何かヒントを得てそれを兄さんがはじめから自分のやり方で考えぬいたわけじゃないからわかりにくいだけのことよ。もう一度学生になったと思って、二階の部屋でこの論文を一行残さずじっくり読んだうえで、方程式もみんな自分でやってみたらどうかしら。そうすればきっとあっさりわかっちゃうわよ。』
 僕は、妹に言われた通りに論文を全部よくよくチェックしながら読んでみたところ、ほんとうに内容も簡単明瞭なことがわかってきた。僕は頭からこの論文は難しすぎると思い込み、読むのがおそろしかっただけのことだった。」

 妹さんの、この忠告をきっかけとして、先生は、物理学における理論を展開し、ノーベル賞をいただかれることになったのです。この章では、その理論が結実してゆくまでの過程と、そのときの問題点を述べられていますが、最後に

「僕は、もう決して二度と『専門家』の報告をうのみにするような間違いはしたくない。
もちろん人間の一生は一回きりしかなく、その間さまざまな間違いもしでかすが、お陰でしてはいけないということも学ぶものだ。だがやっと、それを学んだころには、もう人生は終わりなのかもしれない。」

と結んでおられます。先生のような自由度の高い(柔軟性に富んだ)方であっても、「予見や自己を入り込ませずに観る心」に帰るためには、妹さんや研究仲間の意見が必要なのでしょう。柔軟性に欠けた私どもにとってはなおさらのことです。

 宇宙の働きを願として受けとられた「科学する心」(内因)と他による批判(外縁)を通して、もともとの「科学する心」に立ちかえる(復帰)ことができるのでしょう。

 宗教も科学・技術も、他文化の批判なくしては、自己満足と執着に落ち入りやすいのではないでしょうか。科学・技術自身も他文化の批判を通して、現代ようやく、「進歩の観念」にとどまっていた状態から、新しい一歩を踏み出そうとしているのでしょう。

 宗教も時代とともに歩んでいくためには、他文化からの批判を素直に聞いていくことが大切だと思います。そういうときに、『願海』自身も、真の批判者としての斎藤先生に出会うことが出来たことは素晴らしいことだと感慨にたえません。斎藤先生が『科学する心』という論文を書かれたのですが、この「科学する心」という言葉は橋田邦彦先生のお言葉だそうです。斎藤先生もつねに橋田先生を通してこの言葉(名号)を憶念され「予見や自己を入り込ませずに観る心」を回復されてこられたのではないでしょうか。真宗でも常に「お念仏(仏の本願力を憶念すること)をわすれてはいけません」といいます。すなわち、名号(良き師の仰せ、本願からでた言葉)に出会わなければ回復できないのではないでしょうか。親鸞聖人のお言葉を引いておきたいと思います。

「真実信の業識、斯れ則ち内因と為す。光明名の父母、斯れ則ち外縁と為す。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」

(3)本能としての技術

 斎藤先生の『技術の源泉を問う』という論文を中心に、もう一度科学と技術について考えてみたいと思います。

「人間の社会で進歩したと称せられる科学的法則の本質はなんであろうか、実はその法則性そのものは、そこに人間がいようといまいと無関係に成立する法則である。だから科学が進歩したというのは、その存在に対して人間が何物かを付け加え、何物かを減らすことができるというのではなく、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。
 ニュートン力学から量子力学、相対性理論へと物理学は進歩しましたがこれとてわれわれの力によって作ったものでなく、人間の存在と無関係に存在するそのような法則を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解釈を克ち得たものである。」

と述べられています。しかし、前述しましたように、その科学を「科学する心」は、願によって支えられた「予見や自己を入り込ませずに観る心」と先生は定義されております。

 また、一方技術については

「生物はやっと人間のところまでたどりついたときに、生物の内部の環境適応性あるいは自己アイデンティファイというものをもう少し明らかに、今まで内側に積み重ねてきたもの――細胞分裂のみの初期の段階から、現在の存在に至るまで蓄積したいろいろな学習情報を遺伝子の中に全部蓄積してある――を外側に向けていくことが出来るようになってくる。勿論、内側に築いてきたその技術的なメカニズムを生物が外側にあらわしたものとして、クモが巣を張ったり、昆虫が土をまるめて巣を作ったり、あるいは鳥が木の枝や葉をもって巣を作ったりするようなことも、本能という名でよばれる技術としてわれわれは見ることができる。
 私が改めて科学と技術を考えているのは、実は人間にあらわれた技術も、そのような本能性とまったく相違のない直線上にのっているということを強調したいわけである。」

と述べられており、その技術の根源の働きとして、生物の特色である

「自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を越えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にあるといってもよい。生物の特色はネゲントロピー的な志向、これは法則でなくて、そのような志向にあるといってよい。」

と言われているのですが、私は敢えてここで、この志向を「科学する心」に対して「技術する心」と呼んでみたいと存じます。

 そしてこじつけだと批判されるかも知れませんが、「光明無量の願」と「寿命無量の願」に対応させたいと思います。

 光明は世界を示していると同時に智恵をあらわします。ですから「光明無量の願」は「科学する心」に対応します。

 寿命は歴史を意味すると同時に慈悲をあらわします。「寿命無量の願」は「技術する心」に対応します。

 「科学する心」も広義にとれば生物の本能として世界を観察し、その内部遺伝子への情報として組み入れてきたのだと解釈することはできないでしょうか。斎藤先生は

「科学と技術の歴史が始まるに先立って『はじめに完全性があった』、科学する願の本籍地は『完全性』にあるという。その『完全性』から科学・技術は始まったのである」

と言われていますが、わが聖人の『教行信証』「真仏土の巻」に

「すでに願います、即ち『光明・寿命の願』これなり。」

と述べられています。いのちの根源を言いあてられているのでしょう。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見