(7)情報化社会

 いままでは、斎藤先生のお言葉を中心に述べさせていただきましたが、ここからは、私自身が日頃から感じています事柄についてお話させていただく予定です。

 現代は情報化の時代、情報氾濫の時代と言われていますが、情報が氾濫するということはないのであります。以前にも『願海』は、情報ということを問題にしたことがありますが、真の情報は自己自身にとって生きた、自己を変革し、あるいはそれによって何かを生んでゆく働きがあるものでなければなりません。

 世の中に氾濫している多くのデータ(情報となる材料・資料)―これらは書物や雑誌であったり、新聞、ラジオ、テレビなどの種々のメディア(媒体)を介したものであったり、直接他の人から聞く話であったり―が私にとっての情報となるためにはそれらの中からおのずと選択することが必要になります。当然、皆様も日常生活では、無意識であっても多くのデータから自分に必要な情報を選択されているはずです。ですから問題は数多いデータの中から自分にとって重要であり、大切な情報をいかにうまく選ぶかであります。

 通信の分野などではデータを伝達する場合に、その途中で色々な雑音が入ります。ですから、受信するときにそれらの雑音を除去し、送信された真の信号だけを受け取るようにしていますが、その雑音を除去することをフィルタリング、あるいはフィルタ(濾過器)にかけると申します。コーヒーを入れるときに紙や布のフィルターをかけますが、あれも同じ意味のものです。すなわち、必要なものだけを濾過するのです。ですから、世の中に氾濫しているデータを適当な濾過器(アダプティブフィルタ)を通して、受け取ることが必要です。

 これらの情報を取り出すための作業を、コンピュータを利用して行っているものがあります。「データベース」と呼ばれるものです。種々のデータがデータバンクと呼ばれる大きな記憶容量をもったものに格納されています。必要なときに、適当なキーワード(鍵になる言葉)を入力しますと、それに関連したデータ情報がディスプレイ(テレビ)画面やプリンタに印字出力されるのです。

 我々の分野では、文献検索などにも応用されています。皆様方の生活上ではよくダイレクトメールに使われていると思います。知らない会社などから、入学前のお子様がおられるときなど、新入生用の学用品の案内などが送られてきて驚かれることがおありだと思います。これらは住所、電話番号、家族構成、家族の年齢などが、データバンクに入っていて、必要な情報をそこから取り出しているのです。

 最近ではこれらの作業に人工知能(AI)を利用したものが出現しています。例えば、お医者さんの知識をデータベースとして蓄えておき、患者さんの症状から、どの病気にかかっているかを推論するエキスパート(専門家の知識を利用する)システムと呼ばれるものです。現在ではあらゆる病気を診断するまでに至っていませんが、特定の病気に対するものは出来ています。これらのシステムでは、多くのデータから、医者あるいは人間がどのようにデータを選択し、それらを用いて推論するか、その機構をコンピュータによって達成していこうとするものです。

 したがって、我々もそうですし、これらのエキスパートシステムであっても、フィルタリング作用が重要な働きをもっております。

 親鸞聖人はどのようにして情報を選択・濾過されたのでしょうか。よき人の眼力・智恵に素直に従われたのではないでしょうか。自己の色メガネで観察すると誤って受け取ってしまうからではないでしょうか。もう一つは、曽我先生がおっしゃいます純粋感情が働いて自然に濾過してくれるのではないでしょうか。

(8)情報のろ過

 情報が氾濫することはないと述べ、データと情報を区別しましたが、一般的にはその区別は明白ではありません。情報という言葉は英語で information (インフォメーション)です。英和辞典で調べますと「通知、報告、情報、知識、見聞、案内所」などと出ています。一方、データ( data )は「資料論処、知識、情報」などとあります。

 ですから、私は非常に狭義の意味で情報という言葉を使っているかも知れませんが、そのニュアンスをお汲み取り下さい。

 ただ、世の中にでまわっているデータ(情報)に振りまわされ、惑うのではなく、すでに述べましたように、数多くのデータの中から、自分にとって何が重要であり、大切なのか、その選択が問題です。

 そのためには、自分自身にしっかりとした「フィルタ(濾過器)」を持っていることが必要です。いかに、情報を選択し受けとるか、あるいは研究の進め方などに関するノーハウ(知識、技術)的な情報は、科学の分野におきましても、文書に明文化されたものはありません。

 先日、ノーベル賞が利根川先生に決定した時、そのことがテレビや新聞で大きく報道されましたので皆様も御存知だと思います。今まで、自然科学の分野での受賞は、湯川、朝永、福井、利根川の各先生です。その先生方は京都大学の出身でありましたので、ある新聞で、東大と京大の土壌の違いが論じられていたことを思い出します。教育や研究の分野においても、なにか歴史や伝統が生きているということがその報道を通して感じられます。

 戦前ですと、大学を目指される方々は、あの大学にはあの先生がおられるから、ということで大学を選ばれたということを耳にします。現在ではそのようなことはほとんどありませんが。

 真宗には「資師相承」という言葉があります。私見を交えず、必ず師の伝承を通して受け取っていくことが肝要であるというのです。その師を選ぶ(ご縁)という問題も残りますが、高原先生は「善導を学ぶものは善導ばらになれ」あるいは「何か問題が発生したら聖人に相談せよ」と常日頃からおっしゃっています。この「善導ばら」、「親鸞聖人に相談する」ことがしっかりとしたフィルタを持つということではないでしょうか。

 まだ「相伝義書」として公開刊行されていませんが、善導大師の観経疏の講義(釈真玄)『玄義分第一偈頌』の始めに、つぎのように出ています。

「黒谷の元祖(法然上人)は善導流の念仏を本朝に弘通したもう故に、もっぱらこの御疏を本としたもう。故に『選択集』等にも多く大師の釈によりたもう。もっとも道綽・善導と次第の相承なるゆえに、綽・善師によりて、まず教相の一章を開きましまし、次で二行の章己下はこの大師によりて釈したもうなり。『論註』に初に『十住論』の文を引き、難易二道の教相を分別して、ついで『浄土論』を註解し、龍樹、天親と相承を示したもう例のごとし。」

と述べられて資師相承の伝統を明らかにされたのち

「独明仏正意のご製作をいかでか容易に伺うべきに非ず。いわんや未熟不省の身として、披講におよぶべきようなし。しかれども章に、先師(釈一玄)の講述干念有之、そのうえ己前講筵につらなり聴聞せし大都、九牛が一毛書きとどむるの聞記あり。旁々もって、今はその相承口授のままを申しのべ、伝聞の旨をもって宗意の見込みを弁出するのみなり、いささか一言一句、私解を加えず、文相義解の章疏に顕れしほどは、みな章疏へ譲り弁出におよばず」

と言われています。驚くべき確かなフィルタをお持ちであることが、文のはしばしから感じられるではありませんか。ここで、このような文を取り上げましたのは、先人の言われたことをうのみにするということではなく、「予見や自己を入り込ませずに観る心」すなわち「聞く姿勢」、「受取側の姿勢」を問題にしていることを受け取ってください。

(9)顕彰穏密の義

 「情報」という問題を取り上げ、どうしたら私たちは本当のもの、真の情報を受け取ることが出来るかを学んでいます。親鸞聖人は法然上人よりの伝統である三経一論を所依の経典とされ、その中でも『大無量寿経』を真実教と位置づけられて、その流れの中に七高僧の伝承を見られています。その場合に、聖人は厳密に「真・化」を分判されていますが、その分判に際して、顕彰隠密の四字の義を大切にしておられます。

 『玄義分』の講義(釈真玄師)の中に

「聖人のこの御指南(四字の義)によりて、大師(善導)元祖(法然)の宗意、祖師(親鸞)の御己証にかなうように伺いならうを当流拝見の習いとするなり。」

とのべられていますので、ここではこの四字の義を伺い学びたいと存じます。

「今、伝聞の旨にまかせて四字の義をつぶさに示さば、凡そ顕彰隠密というは、顕というは謂く顕露なり、明白に義を開く、彰とは微彰なり、幽玄に意を著す(聖人ご草稿の本に彰字に『うちにあらわす』と左訓したまえり、彰字、うちにあらわすとあれば顕は外にあらわすなるべし、内外に彰すの心、しるべきなり)隠とは謂く隠覆し伏蔵して見えざるなり、密は謂く秘密なり、堅守して開かざる故に、顕は即ち密に対し、彰はまた隠に対す。顕は謂く顕すべきを即ち顕す。密は謂く密すべきを即ち密す。隠は謂く顕すべきを然も隠す。彰は謂く隠すべきを然も彰す。」

と述べられています。また、

「この四字の義、畢竟をいわば、先ず四字におのおの義ありと心得て、さて一義を設くるとき、隠彰は相い合して一義となるなり。しかれば、義は三義としるべし。又密といえども堅守不開の義なれば、顕に対すればしばらく見えざるところを呼んで、秘密と名づくれども、まんざらないというには非ず、ここを隠という。隠はいわく隠覆伏蔵の義なればかくす、ほのかにあらわすというところには、いわず(隠なり)かくさずして(彰なり)、そこにもののある、これを密といい、本願の隠彰という。(真実とはこれをいうべし)」

と申されています。

 我々にとっては何が顕の意で、何が隠の意であるか区別がつかないものですから、とかく外にあらわれたもの、表現されたもののみで判断し、一喜一憂するのです。ですから、情報に振り回されることになってしまいます。この隠顕のこころえ、習いを通して身につけてゆく以外にないのではないでしょうか。

「顕彰隠密の義は『化土巻』に『釈家の意によって ・・・』とはじめに顕しまして、終わり『三経の大網、顕彰隠密の義有りといえども、信心を彰して能入と為す、故に ・・・』と示しましまし、十九丁の間に四カ所において顕彰隠密の義を重々釈したまい、三経におしわたりてこの義あることを示したもう。信心ひとつを能入とすとのたまえり。『能入』というのは、衆生の心想中に満入したもうの仏心これなり、心想中に満入したもう仏心は、誰かそなえぬもなく、たもたぬもなし、ただ一念と発起するのみなり」

と申されています。

 このように伺って参りますと、我々が情報を選択する判断力・濾過作用は、顕彰隠密のこころえ、習いを通すとともに、信心一つに限るとおっしゃいますところの信心、衆生の心想中に満入したもうの仏心・まことの心(あらゆる人々に遍満している)が良き人との出会いによって開発されることが是非必要なのではないでしょうか。

 我々の日常生活においても他のひとの表面に現われた態度のみでその人のよしあしを判断してしまい、その人がそうゆう態度にならざるをえない背景・理由があるということを無視していることがよくあります。それは顕のみによる判断で、「自己を入れて観る心」ではないでしょうか。また、あの人は不信心だとよく言います。出会うことが出来そうもなかった自分自身が仏の教えに出会った背景を忘れてしまって ・・・。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見