(4)根元的不安と願

 斎藤先生の論文を断片的にしか、ご紹介しておりませんので、読者の皆様には、先生のこ意向が十分伝わりにくいかと存じますが、ご了承下さい。

 さて、『科学する心』の中で斎藤先生は、

「我われが対象とする現象界には、二つの壁がそそり立っている。ひとつは観測という方法論が、光の速度(有限)の限界に達した時、現在の我われには観測という方法自身が拒否される。たとえば宇宙の大きさを、心の内で想念することは出来るが、すなわち『想念は光より速い』が、その周縁―光速で膨張しつつあるとされる拡がりについては、そこから我々の眼に戻ってくる光を観測の手段としては使えない。
 それにも拘らず、もし宇宙が有限であるとすれば、その有限の容れ物としての無限がある筈であるという単純な思惟は、それが単純であるが故に、一層、人間の志向に結びつく。すなわち、願生此娑婆国土し来たった以上、肉の存在以上でも以下でもない我々が、存在を認識する以前に、『無限への憧れ』という『願』を根源に植え込まれているという事実――内観としての悲願――は遂に再び、論証と観測の両脚を運ばせてきた科学を観測なき内観へと追い込まざるを得ない。もはや、知の世界ではない。(中略)
 科学はただ存在だけを見る。しかし、存在の極限における時空の拡りの中の不確かさを更に見る。存在が物質化されるかエネルギー化されるかの二重性を見出した現代科学にとって、存在はそれほど確かなものではないが、非存在(可観測的、可述的存在と区別)への証として、多く南閻浮の人身は此の発菩提心を発心するもののようである」と。

 また、先生は『ネゲントロピー序説―別世界―』の中で、此世界と別世界とを問題にされ、此世界は自然科学的世界(エントロピー的世界)と生命科学的世界(ネゲントロピー的世界)とに別けて考えられると定義づけされたのち

「生命のネゲントロピー状態が単なる外乱によって不安が引き起こされるような、それ自身安定なものでなく、生命の此世界のあり方そのものに、根本的につきまとう不安―根本的不安―があることを示すものである。この不安は当然、より安定なものへの願望として無意識下に蓄えられる。
 生命が此世界で表現している生体は、上述のように存在自身の根元と外乱による不安を、存在の内外に持っているとしたら、此世界に対する批判者としての根元的存在が生命操作の根底にあるはずである。それが生体それぞれの多様なあり方に伴い、多様な意識構造にそれぞれ投影するとき、それぞれ異なった表現を持つにせよ、意識界に想念として別世界を浮かび上がらせる。」

と述べられると同時に、別世界は不安の投影として如実に完全ネゲントロピーではなくてはならないと言われ

 「此世界のネゲントロピー的存在の根元的不安に、仮に、別世界のネゲントロピーの無不安が、時空間的に重ね合わされるとするとそれをつなぐものは、もはや五感や意識ではあるまい。」

と述べられています。

 我われの五感や意識を超えた世界、非存在としての世界、すなわち別世界と此世界とをつなぐものは何でしょうか。また、先生が別世界を問題にされているのは何故でしょうか、読者の皆様とともに考えてゆきたいと思います。『教行信証』・「証の巻」のお言葉を引いておきます。

「無為法身は実相なり、実相は即ち是れ法性なり、法性は即ち是れ真如なり、真如は即ち是れ一如なり。弥陀如来は如従り来生して、報応化種々の身を示現したまふ。」

(5)別世界と此世界

 さて、『ネゲントロピー序説―別世界―』の論文中から引用させていただき、此世界と別世界を問題にしております。その論文のまえがきに

「別世界に対する希求は深く人間の心に根をおろしている。それは憧れであったり、恐れであったり、時に異常心理の画き出す幻覚であったりする。およそ客観的立場をとる科学とは縁の遠い世界である。しかし、果してまったく相互に無縁のものであろうか。
 宗教の歴史の中には、古代のシャーマニズムをはじめとし、多くの次元の多様な別世界が埋没している。近代化された宗教では、シャーマニズム的素朴な別世界信仰は認められていないが、依然として宗教の骨格の中には、希求(欣求)と逃避(厭離)とをないまぜて別世界がある。別世界に対比させて、われわれが現在生活している人間世界を此世界と呼ぶとしたら、近代化された宗教においても、さらに自力門のように別世界を否定するものにおいても、此世界との距離の取り方の尺度を論じ、その差異を明らかにしなくてはならない。」

と述べられております。

 本文の中でこの、此世界と別世界の時間的・空間的尺度を問題にされております。時空無限大の時には、此世界というイベントの前後に無不安の世界がある、と述べられ、時間のない永遠がシュミュレート(模擬)されるという点で、宗教の原型が描き出されるだけだと批判されています。

 また、別世界と此世界との時空的尺度を任意に縮めれば、個の生命の誕生と死の前後の時空間が描き出され、これはきわめて通俗的宗教の原型となると言われています。よって、両者とも、此世界との関わりにおいて、断絶していることに対する先生の批判があると思います。

 一方、さらに縮めて別世界と此世界の一部を重ね合わせたモデルについて述べられ、その代表的なものとして、最近のオカルトブームを例に挙げられて批判されています。すなわち

「最近のオカルトブームは唯物論的に人間の根元的不安を解きあかそうとして、不安がより増幅されているのではないかと思われる。」

これらのことに対して先生はさらに

「さて、此世界と別世界の距離の時空間の尺度を零にしたとしたら何事が起るか。すなわち、此世界と別世界が、互いに認識できないが、時空的に二重構造になっている場合である。この場合、此世界と重なり合う別世界に多様な性質を賦与できる。」

と述べられています。前掲の引用文とともにお読み下さい。真宗における此岸と彼岸、浄土と娑婆の二重構造と深くかかわっている内容だと思います。先生は、その別世界を完全ネゲントロピー世界、絶対ネゲントロピー的無限世界、あるいは完全なるいのちの世界、無不安のネゲントロピー世界と、仏教語を用いずに、真如法性の世界、大悲の願海世界を言い当てられておられるのではないでしょうか。

 聖人のご和讃(『浄土和讃』弥陀和讃)をひいてみたいと思います。

 「無明の大夜をあわれみて
  法身の光輪きわもなく
  無碍光仏としめしてぞ
  安養界に影現する」

(6)いたみを持つ

 『ネゲントロピー序説―別世界―』の論文の中で斎藤先生は、別世界と此世界とは時間的にも、空間的にも重なりあっている、二重構造になっているといわれています。そして、その別世界は完全ネゲントロピー世界、無不安のネゲントロピー世界であると述べられています。いままで拝見させていただいた先生の論文から拝察しますと、先生がおっしゃいます別世界は、真如法性の世界、無始無終の法性法身の世界であり、その内容は、志向性、宇宙意志、願、一心法蔵であると受け取ることができます。

 では、なぜ先生はこのような別世界やビックバンに立ちあったいのち・意識を問題にされるのでしょうか。現在まで、科学・技術は表面的な此世界すなわちエントロピー的世界のみを対象とし(具体的にはそれしかありませんが)その効用面のみを追い求めてきたことから、人類が真のいのちを失いつつあるといういたみをもって、地上の事実である科学史、技術史を通して、科学・技術の、生命の底にはたらいているいのちの志向性を問題とし、これからの科学・技術の方向を探っておられるのではないでしょうか。また、国分先生がいわれました「現代なき宗教」に対する批判も含められていると思います。

 きゅうに話の内容が変わってしまいますがご了承下さい。皆様の身のまわりにある電気製品や事務器などを見渡して下さい。十数年前、三十万円ほどしていた卓上の計算機が同じ機能を有するもので、千円以下となり、大きさも内ポケットに入るカード状になっています。一昨年あたりから出まわり始めた十数万円のワープロも皆様のご家庭に進出していると思いますが、その機能の増大、価格の低下の目まぐるしさは大変なものと思います。ですから、少し古くなって参りますとお蔵入りか焼却場行きです。

 エントロピー増大の世界におりながら、その増大の速度はますます高まりつつあります。だからといって後もどりすることもできません。これらの製品を開発している技術者やそれを生産するための生産技術者達は日夜知恵をふりしぼり、仕事に追いまくられながら働いております。その上、この頃の円高と韓国を始めとするアジア諸国の追い上げに悲鳴をあげています。どうしたらよいのでしょうか。人類の内面は別世界を希求しています。

 「真宗相伝義書」第五巻・『略本私考』(東本願寺)の文を引いてみたいと思います。

「誠に知んぬ、大乗の菩薩すらたやすく、この一心法を開顕したまうこと難し、況んや凡夫をや。ここを以て如来大悲におもむきたまい、弘誓を超発せんがために、方便法身を示し、五劫に超世の本願をたて、永劫に無窮の行業を励みて、『為衆開法蔵』と凡小を哀愍して、この一心法蔵を開き、『広施功徳法』と功徳の宝(名号)をめぐみ施したまう。是れを廻向というなり。『不可称不可説不可思議の功徳は行者のみにみてり』とあるはこれなり、此の功徳、外より来らず。本願信ずる処に、今更初めて顕わるに(も)非ず。本よりの法蔵を人々円成してありながら、玉かけながら迷う風情となるによりて、弥陀如来の本願を以て一心の法蔵を開きくだされしを、施したまうというなり。
 畢竟、法性法身は万法(あらゆる存在)に偏満したまうをいう。然れば、この法性法身処は、仏と衆生と無差別一相なるなり。それより顕われたまう方便法身なれば、一切衆生の色心に偏満して、無明有碍の闇を照らしたまうなり。然れば法性法身にては、衆生信ずることあたわざる故に、これを信知せしめんために、無上の願をおこし、その業因に報酬する方便法身なり」

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見