第4回 ACT449 開催のお知らせ
- 2015年12月10日(木)0:00
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獅子吼の会では、このたび第4回「ACT449(アクト獅子吼)~法話と朗読劇のコラボレーション」を開催いたします。前回同様、朗読劇と法話を組み合わせてお送りいたします。
御堂会館閉鎖のため、この会場での最後の開催となります。
みなさまお誘い合わせの上、御来場いただきますよう、ご案内申し上げます。
詳しくは下記PDFまたは、https://www.icho.gr.jp/events/9725をご覧ください。
十二組青年会研修
- 2015年12月08日(火)18:48
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12月7日、第十二組青年会で日帰り研修に紅葉まっさかりの宇治へ、会員六名で行ってまいりました!
行き先は、宗祖親鸞聖人ご誕生の地、日野の法界寺。国宝である平安時代末期の阿弥陀堂と丈六の阿弥陀仏座像が残る真言宗の名刹です。親鸞聖人も幼少の頃、この阿弥陀様をご覧になっていたと思うと、感慨深かったです。
その後、黄檗宗の本山、黄檗山萬福寺にもお参りしました。禅宗らしいぴりりとした空気と中国っぽい雰囲気のあるお寺でした。ご本尊、釈迦如来の右となり(向かって左)には阿難尊者がいらっしゃいます。また、木魚の元祖といわれる開版(かいぱん)がでかかったです^^。
大阪へ帰り、八名にて今年最後の活動をしめくくる懇親会を行いました。
法界寺パンフレットより
親鸞聖人と日野家
浄土真宗の開祖見真大師親鸞聖人は、この法界寺を創った日野資業から四代後に、今を去る八百余年の昔、承安三年四月一日(陽暦五月二十一日)、皇太后宮大進正五位日野有範を父とし、吉光女を母としてここ法界寺でご誕生になりました。ご両親と早くお別れになりました聖人は、九歳の時に伯父範綱につれられて粟田青蓮院において慈円僧正を戒師としてご得度になりますが、得度された九歳までこの日野でお過ごしになり、ご幼少の頃お父君に手をひかれお母上に抱かれ、初めてみ仏さまのご縁を結ばれたのが、この法界寺の阿弥陀如来です。小さい両手を合わせて日夜合掌礼拝される聖人のお姿が今も堂内に浮かんでくる思いがいたします。(以下略)
獅子吼の会のACT449、練習中!
- 2015年12月01日(火)19:01
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今月のことば/教化センターリーフレット2012/4
- 2015年11月20日(金)1:30
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自力をはなれたる
これを唯信という
『唯信鈔文意』(聖典547頁)
親鸞聖人は、法然門下の先輩である聖覚法印が書かれた『唯信鈔』を大切にされます。そして、その標題の「唯信」ということについて、真実の信心で、虚仮(こけ)を離れたこころであると表され、その後に、標記の言葉を続けられます。
一般的には、本願他力といわず、他力本願といって、「他の人からの助力」という意味で使っているようです。また、「他力本願ではダメだよ、自分の力でで頑張らなくては」という言葉もよく耳にします。しかし、本来仏教では、そういう意味ではないのです。
親鸞聖人は、「たのむ」という語に、「憑む」という字をあてられます。我われがよく使う「頼む」という字には、「あてにする」という意味があります。しかし、「憑む」には、「よりどころとする」という意味があり、「他力をたのむ」とは、「阿弥陀仏の本願をよりどころとする」ということなのです。
ところが、我われは、知らず知らずのうちに、自分の考え(物差し)を中心にして行動しています。また、そのことに何の疑いも持っていません。それを自力というのです。
親鸞聖人は、
自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり(『一念多念文意』)
といわれます。ただ、そういう自力の姿は、自分自身ではわからないのです。
日頃、自分の姿を知るためには、鏡に映してみないと、自分で見ることはできません。仏教で自分の姿を知るということは、教え・ことばによって、鏡に映し出されるごとくに、自分の本性が映し出されることです。そこに自力が知らされるのです。
(所出・教化センターリーフレットNo299 2011/4発行)
お寺だってIT/パソコンを使えるようになるには?(2)
- 2015年11月10日(火)1:40
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お寺といえども情報化社会においてはITなんて関係ないなんて言ってられません。正しい知識を身につけて、教化活動に活かしましょう!
パソコンを使えるようになるには?(2)
前回、パソコンは単なる道具である、というお話をしました。そしてまずは「やりたいこと」を見つけるのが、パソコンを使えるようになる入口だと。
ではパソコンになにができるのか。事務関係で言えば、法要の案内や寺報などを見栄えのいいものにしたい。門徒さんの住所の管理や宛名書きをしたい。帳簿をつけたい…などなど。もちろん手書きでも寺報を作れますし、宛名や帳簿も他の方法でもできます。しかし、パソコンで作ればきれいですし、前回作ったものを呼び出して使い回しができます。住所録なら一度作ると封筒や葉書など色々なものに印刷できます。帳簿なら自働で計算してくれるようにもできますし、日付順に並べ替えることもできます。
趣味の分野でしたら、例えば旅先で撮った写真をきれいに取っておきたい。イラストを描きたい。ビデオカメラで撮った動画を編集してかっこよくしたい。ひとりで音楽をやりたい。たまりにたまった本をパソコンに取り込んですっきりしたい。離れた子どもや孫とテレビ電話したい。マイナーな趣味の同好の士を見つけたい。自分の文章や意見を発表したい。思いつくままに並べましたが、それこそ人それぞれ、さまざまな「やりたいこと」があるはずです。
そして、これらの「やりたいこと」に応じて、専用のソフトを使うなり、周辺機器を買うなりしていくということになります。そうは言っても、やっぱり何ができて何ができないかがわからない、どうやってやったらいいかわからない……と思われるでしょう。そんな時は、インターネットでの検索もいいですが、まわりのパソコンに詳しい人、あるいはホームページ委員会に質問するのが一番ですよ。
【委員KS】2013/10
12組青年会 仏華の講習会
- 2015年10月24日(土)17:20
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今月のことば/教化センターリーフレット2012/3
- 2015年10月20日(火)1:25
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『唯信鈔文意』(聖典554頁)
『唯信鈔文意』では、涅槃を仏性といい、仏性を如来と表されます。また、この時の如来とは、阿弥陀如来のことです。そして、標記の語の後には、「すなわち、一切群生海の心なり」とあります。
私たちが住んでいるこの地球という星には、たくさんの生き物がおり、その一々は、計算することのできない、たくさんの世界があります。それこそ人間には見えなくても小さな小さな数限りのない、世界があるのです。それを、微塵世界と呼ぶのです。
しかし、その中で人間は、毎日の生活において何か起これば、一喜一憂する存在ではないでしょうか。身近なことで言えば、他の人の一言によって、心は右往左往します。大きな事でいえば、昨年の3月の大震災やそれに伴う原発事故で、肉親・知人の死を通じ、生きることへの憂いや悩み、想いの届かぬ苦しみを抱えられていることでしょう。
それは、人生の無常を、不安を、頼りなさを、そして、誰も代わることのできない人生を生きる私の心を見つめさせます。心底、孤立無援を感じさせる時があるのでしょう。
阿弥陀如来とは、「ひかりかぎりなく、いのちかぎりなしということであり」、そのいのちというのは、「同感するはたらきである」と金子大榮師は表してくださいます。そして、「泣く人に対しては泣く人の心持ちに同感し、悩む人に対しては悩む人に同感する。いかにもそうであると同感してゆくはたらき」と、示してくださいます。
そして、その如来(はたらき)は、私の気付きに関係なく、誰にでも、何時でも、どんなちいさなところにでも差別なく、生きとし生けるすべてのものの「いのち」となって、満ち満ちているのです。
(所出・教化センターリーフレットNo298 2012/3発行)
お寺だってIT/パソコンを使えるようになるには?(1)
- 2015年10月10日(土)1:36
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お寺といえども情報化社会においてはITなんて関係ないなんて言ってられません。正しい知識を身につけて、教化活動に活かしましょう!
パソコンを使えるようになるには?(1)
パソコンは難しいという声をよく聞きます。なにか近頃の「パソコンくらい使いこなさないと世の中に遅れてしまう」的な風潮の中、ともかくできるようにならないと……と思われている人が多いように感じます。そしてパソコンを購入し、入門書などでがんばって「使い方」を勉強するのだけれど、結局投げ出してしまう。そんな方がたくさんいらっしゃいます。はっきり言いましょう。そういうやり方をしてもパソコンが使えるようにはなりません。残念ながら。
なぜ使えるようにならないのか。これは世間も悪いのですが、ともかくパソコンをなにか万能の文明の利器のように思っているからだとぼくは思います。パソコンはそんななんでもできる魔法の箱ではないのです。紙を切るときはハサミを使います。紙を束ねるときは今ならホッチキスを使うでしょう。文章を書くときは万年筆を使う人、鉛筆でないとダメな人、ぼくのようにキーボードで直接文章を打っている人、さまざまです。パソコンもこれらと同じ、「なにかをするための道具」なのです。ただし、パソコンのいい(そしてやっかいな)ところは、このひとつの機械で、さまざまなことができてしまうというところなのです。しかし道具であることに変わりはありません。
ここが肝要です。「やりたいこと」がまず先にあって、それを効率よく、楽ちんにするためにパソコンが適していれば、使えばいいのです(もちろん他にいい道具があればそれを使えばいいのです)。そこが入口なのです。それがないのに、パソコンを使えるようになりたいと言っても、それは無理な相談なのです。
紙面が尽きました。続きは次号にて。
【委員KS】2013/7発行
天満別院御遠忌法要の仏華
- 2015年10月01日(木)9:37
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天満別院御遠忌のお華を立てています
- 2015年09月29日(火)21:36
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今月のことば/安城正人
- 2015年09月20日(日)1:26
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『唯信鈔文意』(聖典549頁)
『仏説無量壽経』に「本願成就の文」という大切な経文があります。その中に「願生彼国、即得往生、住不退転」(彼の国に生れんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。)という仏説があります。
親鸞聖人は、「願生彼国はかのくににうまれんとねがえとなり。」と受け止められました。「願ずれば」の経文を「願えとなり」という「如来の勅命」と了解されたのです。何故そのように受け取られたかを尋ねてみたいと思います。
衆生の生きている国は、穢土、娑婆、であります。そこは地震や台風による災害があると多大の被害を受け、生活が破壊さてしまう不安定な境遇なのです。また人間は欲望によって戦争、事件を起こし、思わぬ事故が起こります。何が起こるか判らず安心ができません。この国も生物も何時かは滅んでいく有限な存在だといえるのです。如来は国(衆生の国土)と衆生が有限であることを教え、絶対無限なる世界を知らせて下さいました。衆生が彼国に生れることが往生であると教えられました。それ故「願生彼国」は次の「即得往生、住不退転」とともに了解されています。
宗祖は「即得往生は信心をうれば、すなわち往生す。すなわち往生すというは不退転に住するという。」と述べられています。「信心を得る」ことが、「往生する」ことであり、「不退転に住する」ことであると教えてくださるのです。
更に「信心を得る」とき「正定聚の位に定まると如来がのたまう(おっしゃる)御のり(法)」であるとの「おおせ」と聴かれたのです。経文を「おおせ」と拝読していくことが大切であるのだと気付かされました。
(安城正人/所出・教化センターリーフレットNo297 2012/2発行)
お寺だってIT/キーボードって難しい?
- 2015年09月10日(木)1:32
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お寺といえども情報化社会においてはITなんて関係ないなんて言ってられません。正しい知識を身につけて、教化活動に活かしましょう!
キーボードって難しい?
いざパソコンを始めようとした時、ちょっと難しそうに思えるのがキーボード。
ボタンがたくさんついていて、いろんな記号が書いてあって、いかにも難しそうな感じがしますよね。私がパソコンを始めた頃(20数年前です(-_-;))はパソコンにはキーボードしかついていませんでした。マウスもなかったんですよ。何をするにもキーボードでいちいち命令を打ち込まなくてはなりません。おまけに、一文字でも間違うと全く何もしてくれませんでした。
それから、テレビや映画では、画面から目を離さないですごい速さでキーボードをたたくシーンが出てきて「あんなの私には絶対無理」って思っちゃいますよね。でも心配ご無用、私も未だにキーボードを打つ時は指先を見ています。
それに今はキーボードに頼らなくてもパソコンは操作できます。特に今、注目されているスマートフォンはもちろん、タッチパネルを搭載した最新のパソコンは画面に触れて指で操作できるんです。画面の上で指を滑らしたり2本の指でつまむようにすると画面が変わったり写真が大きくなったりします。もちろん文字の入力も画面に指で直接字を書いちゃえばちゃんときれいな字にしてくれます。キーボードが使えなくても、文章を書いたりメールを打ったりできますよ。
とは言いつつも、慣れてくればキーボードを使ったほうが早く入力できるようになりますから、キーボードの使い方も覚えるに越したことはありませんけどね。ともかくキーボードが難しそうだからとパソコンを始めるのを躊躇っているみなさん、きっと今ならパソコンを使えるようになりますよ。
【委員KK】2013/5発行
今月のことば/松山正澄
- 2015年08月20日(木)1:20
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実報土にはうまれずとなり
『唯信鈔文意』(聖典552頁)
お釈迦様は、すべての人が悟りを開けるようにたくさんの入口を説かれています。八万四千の法門です。しかも、誰もが意欲をもって修行できるように私たちの性質にあわせて善行・聞法を勧められています。
私たちの本質とは、強いものが勝つという一面をもつ娑婆(この世)世界で養われたものです。娑婆では、質的にも量的にもより高度なものをたくさん持つことが求められます。必然的に、自分を強くし高めるために知識や技術など善いものを手に入れようという習性が身につきます。
そんな私たちが、善行・聞法を積むなかで、やがて仏法が明らかになり、人と生まれたことや仏法を聞くことを喜ぶ者になるわけです。結果、案の定自分を高めようという私たちの本質から、それが自慢の種になったり、自分ひとりだけの喜びになったりするのです。その世界は懈慢界(けまんかい)とか七宝の獄といわれ、仏さまの世界ですが仏法に出会えず、本当に喜べることのない、仮の仏さまの世界です。
宗祖は、阿弥陀仏の光によって、仏道を行じ歩んでいる自分自身が、いかに傲慢で自己中心的であるかを気づかされるところにお釈迦様の深い心があるといわれます。
「ほんの少し世に知られると私の心波立つあぶないことです」、仏法を喜ぶようになったにもかかわらず、たたえられると自惚れる自分がいたことに気づかされる。また仏法を喜んでいるにもかかわらず周りの人との深い関わりを失ったあり様だったのでしょう。「悲しみと迷いを失ったすがたを善人という」と、気づかされた方もおられます。
お念仏は、方便の行をとおして、実は誰もが自分そのものに目覚め、同時に本当の仏さまの世界〈実報土〉に生まれるはたらきなのです。
(松山正澄/所出・教化センターリーフレットNo296 2012/1発行)