仏青研修旅行・他教区交流会 3日目
- 2025年04月06日(日)0:25
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3日目スタート。
お世話になった宿泊所を出発し、帰路へ。

今回お世話になった宿泊先「民宿わじま」 さん

館内の柱や階段が総漆塗りなのも輪島ならでは

かつての輪島の朝市。売り手のおばさんとのやり取りが楽しかった。。。
途中、仏青会員でもある天満別院列座の堀河くんの父上、堀河正見住職のご自坊「弘誓寺」(石川県穴水町)さんに立ち寄らせていただきました。 急な来訪にも関わらず、温かく迎えてくださったばかりか、ご住職・坊守様にお寺の現状を丁寧にご説明いただきました。

本堂の中を説明してくださる堀河住職。難波別院の顔役としてご存知の方も多いですよね♫
飽きるほど日本海を眺めながら、北陸道をひたすら南へ。
途中で、日本で唯一海岸線を車で走ることができる「千里浜なぎさドライブウェイ」を経由しました。 こちらの砂浜は、砂の粒が通常よりも小さく均一なため、少しくらいでは車が沈み込んだりしません。 昔は車のCMでもよく使われていましたね。

UFO目撃例日本最多の「羽咋市」を通過中、何やら空に見える影・・!?

快晴の中、海岸線に沿ってドライブ♫

男6人で海岸をドライブ・・・
帰阪の途中、唯一の観光として「東尋坊」へ。 東尋坊とは、平安時代の悪僧「東尋坊」のことで、困り果てた僧侶たちがこの地で酒に酔わせて海から突き落としたことが名の由来になっているそうです。 この日はありがたいことに快晴に恵まれ、遠く水平線を眺めることができました。

サスペンス終盤ではお馴染みのシーン

足がすくんでこれ以上は無理でした(汗)

北前船によって繁栄した三国湊。当時は花街として賑わっていた茶屋の置屋を再利用したお店。

今でこそ芸者さんは居ないが、店内には当時の賑わいを想起させる品々が並ぶ。
日も暮れかけた頃、無事に難波別院に帰着。
3日間の走行距離は900km強!
涙あり、笑いありの楽しい時間でした。 やはり、こういった現地での経験は色々と考えさせられます。
また、皆さんとのつながりがさらに強くなったと感じることができました。
今回参加できなかった他の会員も、事前の準備に協力してくれたりと、何かとお手伝いくださりありがとうございました。
今後もできたつながりを大切にしていきたいと思います。
仏青研修旅行・他教区交流会 2日目
- 2025年04月05日(土)13:11
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2日目スタート。
まずは金沢東別院で、朝のお勤めに参加させていただきました。
金沢東別院(大谷派)は「東別院」と呼ばれ、親鸞聖人が明らかにされた念仏を聞法する道場です。
その歴史は戦国時代にさかのぼり、1546年に加賀国石川郡の門徒衆によって、現在の金沢城跡地に「みたう(御堂)」として建立されたのが始まりです。本願寺第10世証如上人から木仏本尊・親鸞聖人御影などが授与され、本格的な寺院であったことがわかっています。やがて一向一揆の拠点となり、「御山(おやま)」と称されるようになりました。
1580年には、織田信長の将・柴田勝家勢の攻撃を受け、ついに陥落。
その後、金沢城に入った前田利家と和睦し、再興がなりました。第12世教如上人が東本願寺をおこすと、これを支持する加越能三カ国の門徒衆が新たに御坊を建立し、「東末寺(ひがしまつじ)」として出発することとなります。1634年に現在地に寺基を定め、たびたびの炎上を乗り越え、復興を遂げました。現在では、地域における真宗大谷派の重要な拠点であり、歴史的な建造物としての価値も高く、多くの人々が訪れています。

金沢東別院山門

山門前は参道が整っており寺内町の風情

阿弥陀堂の重々しい鉄扉。震災時はガタガタと信じられないほどの大きな音がしたそうです

阿弥陀堂正面より。ご輪番からも少しお話を伺わせていただきました
朝食を終え、今回炊き出しのお手伝いをさせていただく輪島へ。
金沢から北上し、羽咋市、志賀町、穴水町を経て輪島市へ。志賀町あたりから風景が少しずつ変わっていくのがわかり、輪島市の手前からは景色が一変します。震災・津波の爪痕がそこかしこに残っています。

道中の石材店

輪島近辺では多数見かけられた「インスタントハウス」

地面の起伏もずっと続く。途中ハンドルを取られるような場所も
炊き出しのお手伝いをさせていただく「道下集会所」で、他教区交流会でも顔を合わせている金沢教区の松扉さん崖さんたちと合流。集会所にはもう何人かお集まりのようでした。
大阪からたこ焼きを焼きに来る、という事前連絡もあって大盛況。
たこ焼き器4台を駆使するも、少々お待ちいただくこととなり、嬉しいやら(汗)。事前に練習しておいてよかった、と会員一同振り返っておりました。お待ちいただいている間に、皆さんから震災の様子や事後のあれこれをいろいろ話してくださいました。ただ、それほど悲観的なものではなく、皆さん前に向いて歩まれているように聞こえてくるようでした。どこかで自分勝手に悲観的なものである、と決めつけていたのかもしれません。大いに反省すべきことでした。
無心で生地を作り、焼き続けること数時間。各々の担当を全うし、無事に終了。本当に皆さんお疲れ様でした。

みんなテキパキ。事前の練習が功を奏しました♫

たこ焼き器フル稼働🔥

お陰様で大盛況♫
セルフのソース選びに戸惑われる方も(笑)

皆さんお疲れ様でした!!
その後は輪島市中心地の宿泊所へ移動し、お近くの浄明寺さんで慰労会・歓迎会を催していただきました。お疲れのところをおもてなしいただき、本当にありがとうございました。

金沢教区の松扉さん・崖さん始め、皆様大変良くしていただきました。ありがとうございました。

懇親会でもたこ焼きは好評をいただきました♫ 焼いて焼いて・・・・

焼きまくって・・・・

終盤は技術の継承に至りました
翌朝、宿泊所のご主人にお聞きしたのですが、宿泊客の3割がボランティア、残りは建築業関係の方ばかりだそうです。作業着を着た建築業の方は、私達よりも遅い時間に宿泊所に帰ってこられ、日が上がり始めた頃にはもう出発されておられました。本当にお疲れ様です。
仏青研修旅行・他教区交流会 1日目
- 2025年04月02日(水)22:58
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本日より3日間の仏青研修旅行・他教区交流会がスタートしました。
難波別院に集合するも、過積載のため?扉が閉まらないというトラブルが発生しました。(汗)

ほとんど業者
たこ焼き道具・材料を積み込みすぎたのでしょうか。
最初の目的地は浄土真宗十派の一つ、「誠照寺派本山・誠照寺」です。
通称「鯖江本山」と呼ばれる通り、福井県鯖江市にございます。
鯖江市は元々、誠照寺の門前町として栄えた歴史があります。
現在でも門前市「誠市」をはじめ、様々な催しが行われています。

一樹一材の総欅造りの山門。左右に見られる「駆け出しの龍」は左甚五郎の作と伝えられる

駆け出しの龍。大火災の際に竜ヶ水を吐いて門を守ったと言われる。

内陣天井絵。極彩色が眩しい。ひときわ鮮やかな青天井が眩しい。
親鸞聖人が越後へご配流の際、この地にご滞在された折に彌陀本願の要法を説かれたご縁に始まるとされます。
ご案内いただいた中でも非常に興味深かったお話に、阿弥陀堂・本尊「閻浮檀金阿弥陀如来(えんぶだんこんあみだにょらい)」がありました。
裕福な仏弟子がお釈迦様に阿弥陀如来像を作り、世の人々に教えを広めるよう諭されたそうです。
そして閻浮檀金(お釈迦様の時代にインドの良質な川底で取れる金の名称)で3体の阿彌陀様を作り、各地で説法をされていたのだそうです。その阿弥陀様が空へ飛んでいった際、慌てて手を掴んだ仏弟子でしたが、手はちぎれてそのまま空の彼方へ飛んでいってしまったそうです。その手のちぎれた阿弥陀様の1体が誠照寺の本尊として残っています。
仏弟子一人による布教では、今まさに救わねばならない人の元へ行くことができないため、阿弥陀様が手分けをして世界へ飛び立ったのだと伝えられています。インド・中国・日本と三国伝来の秘仏として、現在は盂蘭盆会の8月15日にのみ公開されているそうです。

正面の阿弥陀如来の裏にある厨子に「閻浮檀金阿弥陀如来」が安置されている。非公開。
参拝後は鯖江市内にて福井県民ソウルフード「ソースカツ丼」でお腹を満たしました。

福井といえばソースカツ丼ですよ♫

ソースカツ丼なのにキャベツが無い!?
このあとは日本海を左手に見ながら金沢へドライブ。 日本海は、見ていて飽きませんね。
途中、歌舞伎の演目で有名な「勧進帳」の舞台である「安宅の関」やブルーインパルスを目にすることもできました。
幸先の良いスタートです♫
他教区交流会・能登研修旅行を前に
- 2025年03月19日(水)23:52
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大阪市内のとあるレンタルスペース(キッチン)にて、仏教青年連盟会の集まりがありました。
来月に控えた他教区交流会+研修旅行(能登・輪島)で提供させていただく事となった、たこ焼きの練習会を開催。
とはいえ、そこは大阪人。たこ焼きの腕前を自称セミプロと語る面々が集まりました。
一度集まって、どのソースを使うかなどを相談することも兼ねて、練習会を開くことにしました。
男六人のキッチン。ソース以外の香ばしい香りが漂ってくる気がいたします。
テレビでは佐々木朗希投手のメジャー初登板が放送されていましたが、ほとんどのメンバーはそれに目もくれず、黙々と焼いては食べ、焼いては食べ。あのソースが良い、いや、こっちがいい、と。
大阪人のたこ焼き愛は本当に面倒ですね(笑)。

一発目でこの美しさ。練習必要だったか?(笑)

岩本会長の技術が秀でておりました。

辻岡先輩による「泡だて器の使い方」講習スタート。

大谷翔平のホームランに心を動かされることなく、 ただ一心に。
今回は岩本会長が用意してくれた、たこ焼き職人も使用している(?)粉でいくことに決定しました♫
輪島の皆様に少しでも喜んでいただけたら嬉しいですね。
仏教青年連盟会は、会員相互の研鑽と親睦を図り、また、青年会の連絡・連携および社会教化に尽力することを目的とする青年僧の集まりです。さらに、日頃の法務やお寺での生活の悩みを共有できる仲間を集めています。
災害のボランティア活動をはじめ、他の会での研鑽など、今も幅広い経験をさせていただいています。ご興味のある方は、どうぞお気軽にお声がけください。
難波別院 門徒会 研修旅行に行ってきました!
- 2024年09月18日(水)7:29
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9月13日、難波別院 門徒会の研修旅行で浄土真宗・高田派本山「専修寺(せんじゅじ)」へ訪れました。
専修寺の駐車場から境内までは300mほど歩くのですが、その道中で寺内町の町並みを楽しむことができます♫
大阪だと富田林の寺内町が有名ですね。
専修寺が特に発展したのは、第10世真慧上人の時代。上人は東海地方や北陸地方に教えを広め、朝廷からも尊敬を受けました。その結果、専修寺は皇室の祈願所ともなりました。
本拠地は最初、関東にありましたが、戦火で焼けてしまったため、歴代の上人たちは伊勢国(現在の三重県)の一身田に移り住み、ここが本山として定着するに至ります。
専修寺の御影堂(みえいどう)は、開祖である親鸞聖人の木像を中心に、歴代上人の画像が安置されている大きな建物です。
この建物の大きさは全国の木造建築の中でもトップクラスです。
今回は時間に限りがあったので触れることはありませんでしたが、専修寺には多くの寺宝があります。例えば、親鸞の直弟子であ る真仏(しんぶつ)による『専修寺聖教(せんしゅうじしょうぎょう)』や、親鸞聖人自筆の『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもん い)』『三帖和讃』『唯信鈔文意』、『顕浄土真実教行証文類(高田本)等々。。。また時間にゆとりのある機会に訪れてみた いですね。
昼食後には東海道宿場町でも有名な「亀山宿」のちかくにある「カメヤマローソクタウン」へ。
カメヤマローソクは、多くの方が一度は目にしたことがある、神仏用ローソクやキャンドルを製造・販売する老舗のメーカーです。
今年の 5 月にオープンした同社の工場見学施設では、ローソクやキャンドルの製造工程を見学できるだけでなく、実際にキャンドル作りを体験することもできます。 ローソクに関する知識を深め、手作り体験を通して癒しを感じられる、老若男女が楽しめる総合エンターテイメント施設となっています。 和蝋燭以外のローソクについて深く学べる貴重な機会となり、大変勉強になりました。
残念ながら工場内は撮影禁止。展示も多く世界最古のローソクはエジプトのツタンカーメンの墓から見つかった蜜蝋とのこと。毎日ローソクにふれる生活をしているのですが、起源や伝わってきたルートのことは全く知らなかったです(汗)
工場内には CM・ポスターやホーロー看板が並びます。東海地区ではよく放映されていたそうですが、やはりお坊さんを使ったものが多かったようです(笑)
大阪から三重県津市の高田派本山専修寺へ向かう道中には、東海道の宿場町の「関宿」や「亀山宿」といった歴史ある観光地もあり、カメヤマローソクのような新しい観光スポットで学びを深めたりと、バラエティ豊かな体験ができ、研修旅行先として大変好評だったのではないでしょうか。途中の休憩場所が伊賀サービスエリアだったことも、出発地が松尾芭蕉終焉の地であることから、芭蕉の足跡を辿るような旅の趣を感じさせます。今後、芭蕉の歴史をテーマにした研修旅行も面白い企画になるかもしれませんね。
天候にも恵まれ、一日を通して充実した時間を過ごすことができました。 次回の研修旅行も、参加者全員が満足できるような内容にしたいと考えています。
12組 聖蹟巡拝に行ってきました♬
- 2024年09月15日(日)17:04
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9月12日、湖西地方の聖蹟巡拝に行ってきました!
琵琶湖の西岸、高島郡今津町の湖岸沿いの町並みの一角に今回の目的地「泉慶寺」さんがございます。
ご住職や婦人会の方々に出迎えていただき、紙芝居(朗読劇)「蓮如さま」を鑑賞。
比叡山から懸賞金がかけられていた蓮如上人が、今津の長右衛門宅で一泊した際に起きた悲劇的な出来事を紙芝居仕立てでお話しくださいます。
長右衛門一家は、懇ろにおもてなししたが、比叡山から回し文が出ている蓮如上人とわかると、危害を加えようと目論んだ。長右衛門夫婦には17歳になる「お初」という名前の一人娘がいた。この恐ろしいたくらみを見過ごすことができず、父親を諌めるが聞き入れてもらえない。考えあぐねた末、身を隠すのに手頃な洞穴が裏の赤谷山にあることを、上人に告げて裏木戸へ案内する。
家人に気づかれないために、身代わりとして空になった布団に潜っているところを、父親の刃が襲う。鮮血に染まって息絶える娘の姿を目にして、救いようもなく慚愧に泣く父。事情を知られてお嘆きの上人は、一家に六字と九字、十字それぞれの名号を送られ、長右衛門は上人のお弟子となって聞法を深め、空善の法名をたまわった。(泉慶寺さん冊子より)
泉慶寺さんを後にして、次は琵琶湖が一望できる食事会場へ。
最上階のフロアからは、雄大な琵琶湖の眺望がバッチリ♬お天気にも恵まれご門徒の皆さまと楽しい時間を過ごすことができました。
そして、今回の旅のもう一つの目的地、針江地区へ。
この地域では、比良山系から湧き出る伏流水が「生水(しょうず)」と呼ばれ、家々からこんこんと湧き出ています。
この地域では「かばた」と呼ばれる生活用水にもなっている湧水を現地ガイドさん達のご案内の下、見学させていただきました。
お彼岸前とは思えない炎天下の中を皆さんお疲れ様でした♬
コロナ禍がようやく落ち着き(?)、久しぶりに組内同朋の方々と顔を合わせる貴重な時間となりました。
今後も親鸞聖人・蓮如上人のご旧跡や浄土真宗に関わる先達の教えを現地で学ぶ研修旅行を続けたいと思います。その土地の食事や歴史、文化・風習に直接触れる経験は非常に貴重であり、共有することで同朋意識が一層高まると感じた一日でした。
13組 坊守会 日帰り研修旅行
- 2024年07月09日(火)11:12
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先日、13組坊守会で奈良・吉野下市にある『歎異抄』の著者(とされる)唯円坊終焉の地と伝えられる「立興寺」さんに研修旅行に行ってきました!
前日から大雨の予報が出ていたので心配しながらのスタート☔☔☔(・・;)
ご住職がお話くださった「身代わりの名号」という伝説では、平次郎(後の唯円)は仏法に興味がなく、妻の方が親鸞聖人の熱心な信者でした。
妻は親鸞聖人から「南無阿弥陀仏」のお名号をいただき、夫に隠れて毎晩お名号に向かって手を合わせていました。平次郎は妻の行動に不信感を抱き(浮気しているのでは!?)帰りを待ち伏せて斬りつけましたが、妻は無事でした。ふとお名号を見ると刀傷が入っており、平次郎は妻の信心によって命が守られたことを悟り、改心して親鸞聖人の弟子となり、唯円という名をいただきました。(住職談)
立興寺さんを後にして、昼食場所の吉野方面へ。本日は薬膳料理の昼食を頂きました。
どうしても「良薬は口に苦し」の言葉が頭をよぎるので、お味の方はあまり期待できないのでは・・・・・
という不安がありましたが、いい意味で期待を裏切られる事に♫
奈良の吉野には、有名なお寺の金峯山寺があり、昔から山伏たちが山で薬草を使って薬を作ってきました。
また、吉野葛は和菓子や料理に使われる材料で、根っこの部分が薬としても使われていたそうです。吉野の名物「茶粥」には、健康茶や薬膳茶に使われる「大和当帰(やまととうき)」という薬草が入っていて、それを育てている農家も吉野にいらっしゃいます。もともと奈良の吉野には、薬膳料理でお客さんをもてなす文化があったのかもしれませんね。
今回は梅雨真っ只中!前日大雨・当日も雨予報でしたが、奇跡的に傘を使わずに過ごすことが出来ました♫13組の皆さんの日頃の行いの賜物ですね(笑)奈良もオーバーツーリズムで大混雑かと思われましたが、少し観光地から外れるだけで快適に過ごすが出来ました。
事前に心眼寺・松井住職による『歎異抄』のお勉強をさせていただき、それを踏まえて現地に赴き、その土地(寺)の方のお話を聞くのは何にもまさるお勉強になりますね。この度も貴重な時間を皆さんと共有できたことを嬉しく思っております。
さて次はどこへ行きましょう!? (文責 長谷正利)
水平社 日帰り研修
- 2024年06月24日(月)11:56
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先日、12 組の日帰り研修で奈良県御所市にある「水平社博物館(旧・水平社歴史館)」に行ってまいりました。
御所駅は「JR和歌山線」および「近鉄御所線」の終点に位置しますが、駅からかなり離れているため、今回はマイクロバスで向かいました。
「水平社」とは……
1922 年 3 月 3 日、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」をスローガンに、人間の尊厳と平等を大切にするために、全国水平社大会が
京都市岡崎(平安神宮のすぐ横)で開かれました。創立から一昨年で 100 年が経ちました。水平社が発表した宣言は、日本で最初の人権宣言として
今も大切にされています。平和と人権を目指す部落解放運動の始まりは全国水平社にあり、その歴史と精神は多くの先輩たちの努力によって
築かれました。
1986 年、奈良県御所市柏原で地区改良事業が始まり、景色が変わる中で水平社の精神が薄れることが心配されました。この柏原を抜きにして
水平社を語ることはできず、ここでの闘いの歴史を永遠に残したいと考えるのは当然のことです。水平社の創立者たちをはじめ、多くの名もなき
先輩たちが差別に立ち向かって生きてきた事実を掘り起こし、その足跡を保存していくことの重要性を感じ、「水平社歴史館」を建てることに
なりました。
世界人権宣言が国連で採択されてから 50 年が経ち、「人種差別撤廃条約」の批准や「国連人権教育のための 10 年」の決議、日本でも
「人権擁護施策推進法」や「アイヌ新法」が制定されるなど、人権に対する関心が高まっています。この盛り上がりをきっかけに 21 世紀を
人権の時代と位置づけ、先駆的な役割を果たした水平社の世界史的な意義を捉え、水平社発祥の地、御所市柏原を人権のふるさととして
「水平社歴史館」を設立しました。(※水平社博物館 HP より要約)
到着後、ガイドさんの説明を聞きながら館内を巡りました。水平社発足の歴史などがわかりやすく展示されており、また要所要所でガイドさんの
補足説明が入り、水平社博物館が差別撤廃に向けた情報を発信する施設としてどれだけ有用であるかを理解しました。一昨年のリニューアルに伴い、
展示内容は非常にわかりやすく、さらにガイドさんの補足説明も加わり、理解が深まりました。
差別そのものがあった歴史を知らないままでいれば、やがて差別そのものがなくなるのではないかという「寝た子を起こすな論」があります。
しかし、そのような考えでは、最初に聞いた情報が全てとなってしまう恐れが非常に高いため、差別の歴史を「認識」することの重要性を改めて
感じました。
差別・同和問題はその人の取り巻く環境によって全く意見が異なることが予想されます。非常に難しい問題です。私は善悪の分別をつける立場では
ありませんが、それでも今もなお根深く続く差別の歴史を「認識」することは必要だと思います。
そういう意味でも今回の日帰り研修は非常に有意義なものであったと強く感じました。(文責 長谷正利)
「善光寺」研修旅行 三日目
- 2024年06月22日(土)20:05
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研修旅行最終日。
今朝も早起きして「お数珠頂戴」に善光寺へ♫
この日は地元の路線バスを利用して「オリンピックミュージアム」へ。
今回のメンバーは 1998 年の長野五輪ドストライクの世代。やはり気分が上がりますね♫
入場してすぐにオリンピックのハイライトシーンの上映でおもてなし🎞️
女子モーグルから始まり、スケート、スキージャンプと続きます。
再びバスに乗り、長野駅から帰阪。なかなか内容盛りだくさんの 3 日間でした。
コロナ以降、宿泊を伴った研修旅行が出来ずにいたので、今回は伝研の会メンバーと内容の濃い時間を共有できたように思いました。
やはり現地に足を運んで、その土地の人からのお伝えに耳を傾け、その土地のものを食し、楽しみ、吟味することは何事にも代えがたい貴重な
経験だと感じました。
私事ではありますが、二日目に浄善寺(真宗大谷派)の本堂に通されたとき、何故かホッと安心したことが思い出されます。
3日間に渡りに善光寺(無宗派)のお寺を参拝し、お数珠頂戴・お戒壇めぐりといった参拝形式・修行形式に正直、腑に落ちないところもあったせいかもしれません。「徳」を積む・頂戴する、という行為・考え方にどこかスッキリしないのが原因なのだと思います。
いわゆる「真宗馬鹿」なのかもしれませんね。
しかし、「わかりやすさ」を体現・継続しているのが善光寺なのだということも同時に感じました。善光寺では今も早朝からの参拝者が途絶えません。「観光寺だから」で片付けてしまってはいけないように思います。「お前はわかりやすく仏の教え・先達の教えをお伝えできているのか」と問われているような気がいたしました。(文責 長谷正利)
「善光寺」研修旅行 二日目
- 2024年06月22日(土)19:53
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研修旅行二日目の朝 5 時過ぎ。
「お数珠頂戴」に参加するため、日の出とともにホテル出発♫
貫主が入堂された後にお朝事が始まります。もちろん 365 日毎日欠かさず勤まります。
外陣・内陣・内々陣と続くのが他の寺院と違ったところ。内陣までは内陣券を購入すると入ることができます。
※堂内写真撮影禁止
御本尊は正面でなく向かって左側にあるのが特徴的。普段は御厨子の中に安置されています。
7 年に一度の秘仏御開帳はよくテレビなどでも取り上げられるのでみなさんもご覧になったことがあるかもしれませんね。
戦国期に御本尊「阿弥陀如来立像」は武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康へと渡り、全国へ善光寺信仰を広めるきっかけとなっていきます。
また善光寺には「お数珠頂戴」以外にも「お戒壇巡り」と呼ばれる変わった参拝がございます。
この参拝形式では絶対秘仏の御本尊ですが、実は誰でもご縁を結ぶことができる一種の修行法で、真っ暗な内々陣の地下を歩き、本尊の真下にある「極楽の錠前」に触れることができれば、本尊と結縁し、極楽往生が約束されるというのです。
普通なら一笑に付してしまうのですが、真っ暗闇の中、また決して平坦でもない床の上を歩いて錠前に触れるというのは暗中模索している我々凡夫そのものを体現しているようにも思われました。1400 年以上経っても善光寺が親しまれるのはこういった「わかりやすさ」があるからかもしれませんね。
一度ホテルに戻って、新潟県・妙高市へ移動。
ほとんど長野県との境に位置する「浄善寺」さんへ。
山門を抜けて先ず目に入ってくるのが墓石の数々。後で住職に聞いたのですが、このあたりの墓石は耐雪・耐震・寒冷地仕様で厳重にビス止めされているのだとか。というのも降る雪にはめっぽう強いらしいのですが、溶ける際に日当たりがいい方に墓石がずれていくそうです。
また、この地域では雪を心配して早めに報恩講をお勤めになられるようです。浄善寺さんの報恩講も 9 月に勤まるそうです。
ご住職案内のもと「親鸞聖人・袈裟掛けの松」へ車移動。
親鸞聖人は越後流罪赦免の後に関所があったこの地を通って戸隠や善光寺に向かわれたそうです。その際に松の木に袈裟を掛けて休まれたと伝えられます。現在の「袈裟掛けの松の木」は三代目。初代の松は 1200 年頃なのだそうですが、昭和 13 年になってあまりにも老木、これ以上は倒れて危ないので伐採することに。そして二代目の松を植える際に御門主が来てくださってお手植えされたそうです。
その後は昭和 39 年に道路拡幅工事に伴い再び植え替える事になり今の三代目に至ります。
初代の松伐採の際に、せっかくなのでと、先々代の住職が上越市から彫刻家を呼び寄せて親鸞聖人の坐像を彫ってもらった一つがココに納められています(合計 4 体の内の一つ。2 つは浄善寺に。もう一つは東本願寺に、との文献有り)
その他にも住職には親鸞聖人にまつわる「越後七不思議」のお話もしてくださりました。その一つは「焼き鮒」で、親鸞聖人に供された焼き鮒を池に放したら鮒が生き返った、という言い伝えが残るそうです。(他の 6 つは植物にまつわる不思議)
こういった逸話が残るのは、親鸞聖人が訪ねられた地を、門徒の私達も訪ねることで得るものがあるからだと熱してくださいました。
再び長野県に入り、蓮如上人・ご旧跡「榎御坊」へ。
コチラは住職不在の為、少し立ち寄った程度でしたが、先ず榎がどれなのかわからない(笑)
立派なイチョウはあるのですが。
ありました♫西本願寺の御門主が巡教の際、記念に建てられた灯籠に被っていて見えませんでした(笑)
コチラは親鸞聖人が流罪を許され、関東に行く途中に逗留したとの伝承を残しています。さらに真宗中興の祖・蓮如上人が親鸞聖人のご旧跡を辿ってこの地に来られた際に一本の榎を植えたのが良く繁ったので「榎の御坊」(別名「藤の木のご旧跡」)と呼ばれるようになったそうです。
江戸時代から大正末期まで毎年四月に近隣の信徒が大勢参詣し、門前市を催すほどの宗教上の拠点にまでなっていたそうです。
長野市に戻る道中で小布施に立寄り、昼食と散策♫
小布施といえば、やはり栗♫栗を使ったおこわや和菓子・洋菓子が楽しめます。また、葛飾北斎の作品を展示する「北斎館」があり、美術愛好者には必見の街です。最近では地酒なども人気で食文化も充実した観光地です。
とはいえインバウンド観光客が全く居なかったのが意外でした。
その代わり修学旅行の生徒を街のいたるところで見かけました。
今後の研修旅行はオーバーツーリズムに配慮したコースづくりが必要になるのかもしれませんね。
最後に訪れたのが日本人よりも海外観光客に大人気の「地獄谷野猿公苑」♨
若干疲れの見え始めた伝研の会メンバー。入口の看板を見るなりややげんなりとした様子。
「歩ききった先には素晴らしい光景が待っていますよ」と添乗員にノセられて、往復 3.2 ㌔(登坂あり)のハイキング♫
非常に内容の濃い二日目でしたが、最後のお猿さんたちに癒やされました♫
疲れの出ないことを願って、明日の最終日に備えるとしましょう♫
「善光寺」研修旅行 一日目
- 2024年06月22日(土)15:52
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先日、伝研の会では長野・善光寺をはじめとした親鸞聖人・蓮如上人のご旧跡巡りに行ってまいりました。
新大阪で集合。名古屋で特急しなのに乗り換え、長野駅についたのは 13 時過ぎ。
「遠くとも 一度は詣れ 善光寺」で有名な極楽往生が叶う寺として 1400 年以上の歴史のあるお寺です。
御本尊は絶対秘仏と言われますが、7年に一度だけ「御開帳」があることでも有名ですね。
そして無宗派のお寺としても非常に有名です。 ※現在は浄土宗の御上人様と天台宗の御貫主様が住職を務めておられます。
まずは親鸞聖人が 100 日間逗留された宿坊「堂照寺」さんへ。
ご案内していただいた鈴木さんのお話によると、親鸞聖人が越後から常陸の国に向かう途中、善光寺に立ち寄られた際、100 日間この堂照坊という宿坊に逗留されたという記録が残っているそうです。
親鸞聖人がこちらに宿泊された理由は 39 軒の宿坊の中でも堂照坊が代々善光寺の御灯明を引き継いできたというのが大きな理由だったと伝えられます。
こういう逸話も残っております。
親鸞聖人が留まられたのは 11 月から 2 月までの約 3 ヶ月間の冬の時期です。堂照坊の源阿房をお供に戸隠山へ行った際、手元にあった熊笹の葉を
使って六字の名号の形を作られたと言われています。これは、松や笹が冬になっても枯れることなく青々としている様子にたとえ、南無阿弥陀仏の
お念仏もどんなに時代が変わろうとも決して枯れることなく続くという意味を込めたものです。
また、堂照坊では、逗留の間に抜け落ちた親鸞聖人の歯が安置されています。
まずは仁王門。両側にはもちろん仁王像。コチラは彫刻家・高村光雲(高村光太郎の父)作のもの。
仲見世通りでは気づくのはいろいろな灯籠が奉納されていて、左右対称ではなくあちこちに立っています。全国からの寄進によるのもがほとんどで、一対になっているものはほとんど無いそうです。
正面に見える「善光寺」の金文字のなかには鳩のシルエットが5つ描かれているのをご存知でしょうか?
「善」の上に2羽、「光」の上に2羽、最後は「寺」の点に一羽。
最初はいがみ合っていた鳩も次第に仲睦まじく向かい合い、最後は左(西)を向いて飛び立っていった、とされ、これは西方極楽浄土を意味するとされているそうです。